私が始めて中国に足を踏み入れたのは、2003年に開催されたイーグレープ主催の景教ツアーで、それまでは夢のまた夢であった。高校時代から書道を専門的に学び、将来は書家として歩み、書人や詩人の李白、杜甫たちが住んだ土地に行ってみたい思いが強くあった。キリスト者になってからは、景教が栄えた西安ほかに行きたい思いが強くなっていった。それをかなえてくれたのが景教研究であり、『景教―シルクロードを東に向かったキリスト教』を出版してくださったイーグレープの穂森宏之社長による「景教の源流をたどる中国景教ツアー」であった。
当時はイーグレープと旅行社が企画実施し、東海聖句書道会が後援となり、川口が団長として穂森氏と参加者十数人と共に足を踏み入れた。言葉が出ないほどの感激で、初めての旅とあって不安もあったが、現地のガイドに導かれ、教えられてツアーができた。それはすべてを導かれる主なる神様が小さな者の祈りにお応えくださって実現したことであった。
やはり現地に行って見たり聞いたりするのは、机上の書物で読み調べるのとではまったく大きな違いがあった。しかし、それまでの中国研究などが無駄でなく、役立ったことは否めない。
さて一行は、景教遺跡巡りツアーに行くため、空港に集まった。10人以上が参加し、主の御名によって往き帰りの道中の安全と祝福を祈り、飛行機は日本を離陸し、目指す西安に向かった。到着して私たちを待っていた政府公認ガイドに導かれてバスに向かった。
その途中、現地の子どもたちが寄ってきて、キャリーケースを運ぶから、お金100円欲しいと言ってきたことには大変驚いた。ガイドさんは戸惑う私たちに、無視してバスに乗ってくださいと言うのであった。このような文化の違いにまず驚いた。それから驚いたのは、中国の広さ大きさ、人の数、自転車の多さであった。
第1回の旅は西安のみで、2回目と3回目は西安、北京の三盆山、内モンゴルのシラムレンと百霊廟(ひゃくれいびょう)を旅した。
最初は西安碑林博物館に行った。門を通り抜けて、玄関からガイドの説明があり、石碑の頭部、碑陽、土台を説明された。碑首の頭部はほとんど同じ作りの2頭の龍の手が玉をつかんでいる形で、どの碑も見るとそうであった。龍は皇帝のシンボルで上帝の使い、皇帝は決して神ではなく、皇帝が政治を悪くすると政権交代がなされていく。だから神を敬い正しい政治をするよう教えている。碑の土台の動物は亀ではなく、公認のガイドさんはビシと言っており、龍の子で、龍と言っていた。日本では海に囲まれて亀をよく見かけるが、中国には亀はほとんどいないという。
景教徒たちは中国に入って皇帝崇拝はせず、神が立てた指導者と認め、万物の支配者である三一の神を恐れ、福音を伝えていった。
多くの石碑を眺めながら奥の部屋に向かっていくと、景教碑が建っていた。間近に見ると、写真で見ていたそのものであった。興奮してきて、写真を撮り続けた。それは私だけではなく、見学していた欧米人も、私たちの参加者もそうであった。碑の裏面を見ると、字は彫られていなかった。本当にこの碑は立派である。
次いで説明書きを見ると、781年に長安の大秦寺に建てられ、埋められたのがいつかは不明だが、1625年に西安の西で発見され(1623年説もある)、碑林博物館に移されたのは1907年という。言い伝えによれば、明末時代に西安の崇聖寺で発見され、イエズス会士によってローマに伝えられ広まった。いつの間にかネストリウス派という蔑称が付いたが、正式にはネストリウス派ではなく、碑文に書かれている「大秦景教・東方景衆」が正しい。従って、この説明書きを訂正してほしいと願う者の一人である。
景教碑を眺めた後で、私たちはさらに奥へと進み、拓本採取風景を見て拓本販売のお店に行き、景教碑文の拓本を何部か購入した。その際、ガイドに教わった大切なこと。中国では物品を購入するとき、値切ること、値切ってなんぼだと聞いたので、何部か買うから安くしてとしきりにお願いすると、計算機を持ってきて多く値切ってくれた。そのことも驚きであった。同行した者も熱心に値切りの交渉をしていた。(続く)
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
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