『天道溯原(キリスト教の証拠)』という漢文で書かれた書物があります。その中に景教碑文(シリア語文を除く)が掲載されていました。
2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」に登場した主人公、山本八重(1845〜1932)の兄・覚馬(1828〜92)は、京都で宣教師に出会いキリスト教に触れ、1885年に洗礼を受けた会津藩士です。彼がどうして入信したのかを調べました。
掲載された景教碑文
日本は1873(明治6)年にキリスト教禁制の高札を撤廃し、西洋の学問・文化・法律など、キリスト教も受け入れていく中、宣教師も入国します。米国人宣教医師M・L・ゴルドン(あるいはゴードン、1843〜1900)は1870年にアンドーヴァー神学校を卒業し、72年にアメリカンボードの宣教師として大阪に派遣されました。同じ神学校を74年に卒業し、米国から帰国した新島襄(1843〜90)も準宣教師として大阪に派遣されました。
1875年、大阪で新島襄はキリスト教立私塾の英学校を設立したいと考え、大阪府知事の渡辺昇に設立願いを話しますが、真っ向から断られます。そこで、京都府知事の槇村正直に私塾設立の趣旨を話すと了承され、建設に着手しました。渡辺は67年の長崎県浦上のキリシタン弾圧を加えた一人でもあったからです。逆に、新島が勝海舟に私塾設立の話を持ちかけると、京都府の顧問をしていた山本覚馬に相談するようにと聞きます。
同年4月、京都では博覧会が開催されており、その最中に覚馬はゴルドンから米国長老教会の中国宣教師マーティン(Martin、あるいはマルチン)が漢文で書いた『天道溯原』を贈られて読みました。その直後に覚馬と新島は出会うことになります。
覚馬は『天道溯原』を読んで感動すると同時に、キリスト教に関心を寄せていきます。新島と覚馬が話し合った有名な言葉を以下に紹介します。
「その本はわたしにとっても有益だった。キリスト教についての多くの疑問を氷解してくれたし、長年わたしを苦しめてきた難問をも解いてくれたのだ。若い頃わたしは何とかして国家につくしたいと思い、そのために兵学の研究にうちこんだ。しかしこれだけではあまりに小さすぎると感じたので、人民のために正道が敷かれることを願って法学に関心を向けた。けれども長い間研究と観察を重ねた末、法律にも限界があることをさとった。法律は障壁を築くことはできても、それは心を入れかえることはできないからだ。心の中の障壁がなくなるとすぐ、ひとは盗んだり、嘘をついたり、殺したりするようになる。法律は悪しき思いを防ぐことができぬ。しかしわたしにも明け方の光がさしてきた。今やわたしには、以前には全くわからないでいた道が見える。これこそ長い間、無意識のうちにわたしが探し求めてきたものなのである」(新島がハーディーに送った書簡で、新島が覚馬から聞いた言葉。『新島襄全集10』より)
では、その『天道溯原』とはどんな内容の書物なのか。私が所蔵しているものから紹介すると、上巻、中巻、下巻があり、それぞれ各章に分けられ、上巻の第1章と第2章は天体の存在と運行、第3章は生物の存在理由、第4章は人の存在とその原因、第5章は霊魂の存在、第6章は魚・鳥・昆虫・獣の存在、第7章は万物が神の存在を証ししていることについて。
中巻の第1章は天の父なる神の働き、第2章は預言書に証拠があること、第3章は神の奇跡が証拠であること、第4章はイエスの弟子たちが証明していること、第5章は世界諸国の福音化、第6章は人を救う道、第7章は疑問を解くことについて、付録として徐光啓、大秦景教流行中国碑原文の紹介。
下巻の第1章は聖書の言語と翻訳、第2章は霊魂の不滅や復活、最後の審判、第3章は人の原罪と罪の遺伝、第4章はイエスの贖罪、第5章は聖霊の存在と働き、第6章は信仰によって救われること、第7章は信者の聖化、第8章は信者の具体的な祈り、第9章は聖礼典、第10章は三位一体神について書かれています。
覚馬が本書を読んでキリスト教に目覚め、聖書を読み、三位一体の神を信じて洗礼を受けたのは1885年5月17日でした。それまで新島と同志社英学校の設立に向けて励み、府会議員の仕事など多忙でした。また本書を多数購入し、知人や刑務所の受刑者に差し入れたほど本書には感銘を受けました。この時、覚馬は体を弱め視覚障害になっており、書物を読むのも不可能で、耳と霊で聞いては心を強めていました。死を迎える92年12月28日まで、彼の信仰は堅持されていました。
当時の信徒にとって本書は、キリスト教を理解し、聖書や神に近づける最良の書物で、仏教との違いを理解するための良書でもあり、新島も本書を伝道用教材として活用したほどでした。新島は著者マルチンと1979(明治12)年ごろ京都で会い、同志社を見学していましたが、同志社ではこの年に第1回の神学科の卒業式を行っています。
次に『天道溯原』の著者について触れておきます。著者の中国名は丁韙良、米国名はウィリアム・アレクサンダー・パーソンズ・マーティン(William Alexander Parsons Martin、1827〜1916)で、米国長老教会の宣教師として中国に派遣されました。彼は米インディアナ州リボニア市で8番目の子として生まれ、父親も宣教師として活動し、息子は両親のもとで幼少からギリシア語、へブル語、ラテン語を学び、神学と語学の素養を身に着けていました。1848年6月30日ニューオルバニー神学校を卒業し、翌年11月12日に中国南部への宣教活動の辞令を受け、兄夫婦の宣教師ほか、結婚したばかりの妻ジェーンと共に同月23日にアメリカンボードからの派遣を受け、ボストンから香港に向かい、寧波に到着。彼はそこで中国語を学び中国語で宣教を開始。54年に初版『天道溯原』を著すほど中国語に堪能になっていました。また、儒教の書物を学び、儒教にも精通していました。
丁韙良の丁はマーティンの語尾のティから、韙良はウィリアムのイリからとったと考えられます。1864年11月(刻字本)と翌年1月(活字本)に『万国公法』を北京で発行し、やがて98年に北京大学の前身である京師大学堂の初代学長となっています。
こう見ると彼は、神学、国際法学、語学、教育などを学び、それを動乱の中国社会にフィードバッグさせたほど幅広く、その幕開けに生涯をささげていきました。一言で、神と人と社会に仕えた人物でした。彼の遺体は、先立たれた妻の墓地がある北京の西直門外の外人墓地に置かれました。
略年表
1849 マーティンが中国に宣教する
1853 ペリーが浦賀に来る
1854 『天道溯原』の初版が発行
1866 新島襄が米国で洗礼を受ける
1868 明治政府開始
1873 キリシタン禁制の高札撤廃
1874 襄が宣教師として帰国
1875 同志社英学校の設立
1875 山本覚馬が『天道溯原』を読んで感動し回心する
1876 山本八重が洗礼を受ける。襄と八重が結婚
1885 覚馬が洗礼を受ける
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
旧版『景教のたどった道―東周りのキリスト教』
『新島襄全集』(同朋舎、1985年)
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