海音寺潮五郎著『蒙古来たる』の後記(1969年)には、キリシタン以前に日本に到来したキリスト教が景教であることを知らない評論家と歴史作家の間で、小説に登場するペルシア人景教徒をめぐって大きく意見が分かれ、海音寺とある小説家の間にも亀裂が生じたことが書かれてあります。
彼は非難した評者たちに対して反論し、著作背景を詳細に述べ、景教徒の一部が蒙古族に追われて日本に来ていただろうことを書きました。しかし、著書には詳しい布教状況や聖書の言葉などは一切記されていません。
陳舜臣著『曼陀羅の人 空海求法伝 上下』(TBSブリタニカ、1984年)には、遣唐使として中国の長安に入った空海が、祆教(けんきょう)のゾロアスター教寺院や回教のイスラム寺院に出掛けて指導者に出会ったことや、さまざまな会話が描かれてあります。続いて、長安にいたインド僧で空海のサンスクリット語の師、般若三蔵に伴われて長安の一地区にあった義寧坊の景教大秦寺に出掛け、大秦景教流行中国碑の述者で司教である景浄に会います。
「燃える人」の項目は、般若三蔵とソグド語やペルシア語、シリア語ができる景浄とが互いにソグド語の仏典『六波羅蜜多経』を途中まで共訳したことや、景浄と空海が出会って会話したことが書かれます。般若三蔵に連れられた空海は景浄に会って会話するというシナリオです。
「景浄は『復活』の説明をはじめた」(399ページ)と書くものの、説明は書かれていません。むしろ著者は復活を、形を変えた弥勒下生(みろくげしょう)にすり替えています。十字架の贖罪死があってこそ死からの復活があり、やがて世の終わりに起きると語る聖書の「復活」のことなど、その信仰の奥義は話されず、景教の教えについてや景教碑を紹介する場面も作品には書かれてありません。
空海は、唐で多くの人との出会いや宗教文化を経験し、数多の密教経典を持ち帰りましたが、景教に関する書物などは一切見当たりません。密教徒への入会式で頭頂に水を注ぐ灌頂(かんじょう)や、目隠しして花を投げ、どの仏と関係を持ったかというような儀式はキリスト教にありません。灌頂についてはキリスト教と似ていますが、密教側が言うように、古代インドの王位就任式で行われた注水儀式が密教に取り入れられていったと考えます。また、護摩板を燃やして罪を取り除く呪術は、ヒンズー教やゾロアスター教からの影響であり、儀礼の始まりに十字を切る印は景教徒たちの儀式から取り入れたのではと考えるなら、空海は宗教の百貨店をつくり出した達人で、まさに混交宗教の先駆けであると言えましょう。
しかし他方で空海は、大日如来の化身として今も生きて信徒を教導し、信徒から「南無大師遍照金剛」と崇拝され、やがて地上に降臨する救い主とするなら、まったくのサタンの影響で造られた憂うべき偶像崇拝教と言えるでしょう。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
旧版『景教のたどった道―東周りのキリスト教』
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