信仰という意味は、辞書によりますと「信じ尊ぶこと」とあります。聖書では信仰を、天地を造られた神を信じ、神と共に生きることと教えます。神との愛の関係です。
1. 悟る
信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。(ヘブル11:1〜3)
信仰は、私たちが望んでいる福音の約束を保証し、目に見えない生ける神を確信させるものです。旧約聖書の信仰の人々は、神の福音の言葉に希望を持ち、目に見えない神を信じ、あらゆる苦難を乗り越えて、この信仰によって称賛されました。
信仰は、旧約聖書で称賛された人々の信仰によって世に現されました。その信仰は、望んでいる事柄を神が保証していたことと、目に見えない神によって実現されたことを確信させるものだったのです。
信仰によって最終的に悟ることは、万物が目に見えない三位一体なる創造主の言葉によって造られたことです。聖書の信仰者たちは、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟り、創造主が語られた言葉によって万物が創造されたことを信仰によって悟りました。
2. ささげもの
信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。(11:4)
アダムとエバの間に生まれた第1子カインと第2子アベルがいます。カインが神にささげた穀物のささげものは神に喜ばれず、アベルがささげた初子で最良の羊は神に喜ばれ、義とされました。(創世記4:1〜8)
信仰の証明として、ささげものが最も効果的であることの証しが、アベルのささげものによって啓示されました。アベルの信仰はカインにねたまれ、アベルはカインに殺されましたが、アベルのささげものによる信仰の義は、今もなお語っています。
ささげものによる信仰の義は、人と比較しやすい性質上、ねたみがつきものです。しかし、私たちの献金や献品がねたまれ、ときに迫害されたとしても、宝は天に積まれ、その人の信仰は証しされ、他の信仰者の手本となります。
3. 神に近づく
信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(11:5、6)
アダムから7代目のエノクは、神と共に歩みつつ子どもを産み、365年神と共に歩んだので神に喜ばれ、エノクが死を見ないよう神が天に移されました。(創世記5:21〜24)
エノク以外で生きながら天に移されたのは、大迫害の中で神に従い通した預言者エリヤです。目に見えない神と信仰で共に歩み続け、信仰で従い続けることは、神に喜ばれることだと理解できます。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」。これが、信仰の結論だと言えます。
目に見えない創造主を信じ、信仰の行いに神は報いてくださると信じるなら、神に喜ばれ、天に入れてくださいます。
まとめ
信仰とは、目に見えない創造主を信じ、神と共に歩み、神にささげものをし、神に従い通し、神に喜ばれる信仰生活を送り、神に近づくことです。
また、望んでいる事柄を神が保証してくださると信じ、御言葉によって望みが実現されることを体験することで、目に見えるものが御言葉によって造られたことを悟ります。
私たちは信仰によって神に近づくことができるのであって、信仰によって神の存在を確信し、求める者には神が報いてくださり、ついに御国に入ることを悟ります。信仰によって神に喜ばれることを体験するのが、信仰生活です。
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