この世界はどのようにして誕生したのか? 多くの科学者たちがあらゆる機会を捉え、この疑問の答えを自然科学の中に探してきました。さまざまな仮説が生まれましたが、反例が多すぎて証明できそうなものはありません。この世界は、その誕生の起源を自然の秩序の中に発見できないのが実情です。
それでも、それぞれの領域を真剣に探究すれば、現代科学の領域を超えた大きな力の源(創造主)を認めざるを得ないと、多くの科学者が告白しています。確かにその通りだと思います。
聖書の中でパウロは、創造主の存在を認めない者に対して、次の言葉を語っています。
神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。(ローマ人への手紙1章20節)
パウロの時代から2千年の歳月が流れ、科学は多くの自然現象を解明し、図らずも、人知の及ばない創造主の存在を指し示してきたように思います。パウロの言葉は、今の時代にそのまま当てはまります。
神様がいるとは到底思えない
ところが不思議なことですが、自然科学に深く関わりながら、創造主を否定する人も数多くいます。私自身、自然に親しみ、自然を対象に仕事をしていたにもかかわらず、30歳ごろまでは、神様がいるとは到底思えないのが本音でした。
当時を振り返ると、それは、何か根拠があったわけではなく、一種のマインドコントロール状態にあったように思います。そして実は、今でも当時の感覚を覚えていて、創造主を否定する思いが突如脳裏に浮かび、私を悩ませることがあります。
マインドコントロールの実態
このマインドコントロールは、育った家庭や友人関係、教育環境などすべてを通して与えられました。成長とともに、心理学の世界でよく話題になるビーカーの中に入れられたノミのような状態になったように思います。
ノミは、1~3ミリ程度の小さな体ですが、信じられないほどのジャンプ力があります。ビーカーの中に入れたら、すぐに飛び出してきます。ところが、そのビーカーにふたをすると、ノミはジャンプするたびにビーカーのふたに衝突します。
これを繰り返していると、ノミは学習して、頭をぶつけないようにあまり高くまでジャンプしなくなります。そうなると、次にふたを外しても、ノミはビーカーの外に出てこなくなるそうです。
人は創造主である神様を求める存在ですが、創造主を見上げようとする心にふたをするようなメッセージを繰り返し受け取っていると、創造主の存在さえいつの間にか見失ってしまうのかもしれません。
私は自分の育ってきた環境に、そのようなふたが幾重にもあったように思います。誰かが私に教えたわけではないのですが、「この世界は見えるものだけで構成され、人の命も体の死で終わり存在しなくなる。見えない神は存在しない」と考えるようになっていました。
この世の富は頑丈なふたになり得る
だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。(マタイの福音書6章24節)
見えるものだけを追い求める社会は、富に仕える人々を育てます。そして、巨大な富を得た人々の力が世の中を支配するようになります。産業革命以来、私たちは、既得権益を持つ人々が備える頑丈なふたのされた世界に住んでいると言っても過言ではないでしょう。
その影響は生活の隅々にまで及び、創造主の与える大切な愛、希望、信仰を軽んじていきます。私たちは、いつの間にか創造主の存在すら意識しないようになり、大切なものを置き去りにするのでしょう。
日本の伝統文化に一筋の希望が見える
しかし、このように抑圧された環境とはいえ、日本の伝統文化の中には、創造主に向けられる祈り心が受け継がれているように感じています。頑丈なふたをされた中ですが、確かに一筋の希望の光が見えてきます。
マインドコントロール下にあった私も、日本の伝統的な習慣の中で、創造主を知ることなく祈っていました。進路で迷った時、結婚する時、子どもが生まれる時、仕事で行き詰まった時、それぞれの場で真剣に祈った経験が無ければ、正しい信仰に導かれることもなかったでしょう。
このような伝統文化は、おそらく、かつて古代に伝えられた創造主への信仰が、さまざまな宗教に融合し、時代とともに形を変え、日本人に影響を与えてきたのでしょう。日本宣教は、欧米の教会文化を移植するだけでは進まないでしょう。偶像礼拝を避けながら、日本の歴史と伝統文化に寄り添い、共に創造主を見上げる作業を地道に繰り返していくことが大切だと思います。
やがて、多くの日本人が頑丈なふたの覆いを乗り越え、天地を造られた創造主に向かって祈りをささげ、あふれるばかりの愛、希望、信仰を受け取っていく時代が来ることを心より願っています。
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