私たちに与えられた大きな使命、それは「大宣教命令」に従うことです。つまり「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」という、主からの命令に従うことですので、【伝える】ということは、私たちにとって、とてもとても重要なことなのです。
しかし、私たちは【伝える】ということについてどのくらい真剣に考えているでしょうか?
私たちが伝える《福音》は、世界最高の価値を持つ情報です。その価値がキチンと伝われば、誰でも受け取りたいと思う情報なのです。「永遠の命」を頂けるという情報ですので、みんなが飛びついて当然なのです。しかし残念ながら、日本では伝わっていないのです。伝えている《福音》は完璧ですので、伝わらない原因は、私たちの【伝える】方法にあるのではないでしょうか?
大切なことを人に伝え、その情報を共有していただくためには、その人の心に届ける伝え方が必要です。どのように【伝える】のかということに徹底的にこだわる必要があるのです。
私たちが【伝える】ことに、どれだけ真剣に向き合っているかということが問われます。あるイベントで、クラシック歌手が昭和歌謡を歌うのを見たことがあります。譜面を見ながらの演奏でしたので、何も伝わってこなかっただけでなく、歌謡曲を甘く見ているダメな歌手という感想を持ってしまいました。以前訪ねたある教会の礼拝で、牧師がずっと下を向いたまま原稿を見ながら1時間以上も説教したのを覚えています。聞き手を無視した棒読みの朗読でしたので苦痛以外のなにものでもありませんでした。説教の内容はまったく覚えていません。このように、【伝える】ことに真剣でなければ、心には何も届かないのです。
私たちは、自分の生きざまを通して【伝える】必要があります。《福音》を伝えるのですから、《福音》に生きている姿を通して伝えることが肝要なのです。自分自身の証しをいつも準備しておく必要があります。文章にして、何回も何回も鏡の前で練習をして、最高のプレゼンテーションをいつでもできるように備えましょう。メッセージを語るときも同じです。会衆にメッセージが明確に伝わるかどうかを常に意識して準備しなくてはなりません。言葉や話し方だけではなく、表情や動作、マイクや音響のバランス、会堂の気温など、すべてが【伝える】ために適切かどうかを吟味してください。
私たちには、さまざまな物語を通して《福音》を語ることが求められます。イエス・キリストも多くの物語を用いて神の国を私たちに示してくださいました。クリスチャンたちの証しや、多くの例話を収集し、いつでも使用できるように備えていなくてはなりません。そのためには読書や観劇や映画鑑賞をはじめ、セミナーやワークショップなど、さまざまな情報収集の機会をつくり、学び続けなくてはなりません。
私たちは、《福音》を信じた結果がどうなるのかを明確に知らせる必要があります。「神の国と神の義とを求めなさい」のあとには、その結果として「そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」と知らせてくれているのです。「求めなさい」のあとには「与えられます」、「捜しなさい」のあとには「見つかります」、「たたきなさい」のあとには「開かれます」。聖書は結果にコミットしてくれるのです。結果に責任を持って【伝える】のです。
私たちは、いつも情熱を持って語らなくてはなりません。主は、私たちを救うために途方もない情熱を持って十字架にかかってくださいました。命がけの情熱です。私たちは、その情熱の証しである聖霊の炎に燃えて語らなくてはならないのです。私たちからほとばしる情熱は、必ず人々の心に届きます。
私たちは常に、伝える方法を考えなくてはなりません。伝えるための新しい方法を見つけ続け、工夫をし続けるのです。これはとてもクリエイティブでやりがいのある仕事です。クリエイターやコピーライターたちがやっている仕事と同じなのです。ワクワクしながら新しい方法で《福音》を伝えるとき、人々の心に必ず届きます。
《福音》は普遍です。しかし《福音》を伝える方法は多種多様なのです。その場その場、その人その人によって適切な【伝え方】を用いることができるように上達していかなくてはなりません。主に与えられた使命を全うするためには『達人』になる必要があるのです。
《福音》を人々の心に届けましょう。
ハレルヤ!!!!
彼らはみな達人であった。(1歴代誌25章7節より)
◇