『封印された殉教』の上巻に続いて、待望の下巻の書評をなす機会が与えられ、感謝しています。上巻から下巻への橋渡しのため、著者の佐々木宏人氏は、私たちにとても有効な贈り物を与えてくださっています。下巻の最初に登場する「上巻のあらすじ」(3、4ページ)です。上巻を読んだ人たちにとっては、自分たちの読み方を著者自身の言葉をもって再確認することができます。また、下巻から読み始める場合でも、この的確な要約を熟読することにより、下巻を読み進めていく準備が整います。
上巻から下巻への移行の間に、もう一つ感謝な経験をしました。上巻の書評について、著者の佐々木氏ご本人から私信を頂き、特に以下の箇所から深い励ましを頂きました。
「(書評の)3回目で戸田帯刀神父の『個人の存在、その(信仰の)尊さ』、それをのみ込む戦時体制のむごさ、先生が指摘されている『現在から明日への日本教会の姿と二重写しではないか』、当方が一番感じていることを鋭く読み取ってくださっていることに感謝致します」
今後の私たちの生き方にさらに大切な示唆を与えると期待する下巻は、戦時下の戸田帯刀神父の生き方・死に方を、精密な時代背景の中で以下のような構成で描写しています。
4章 神の愛に生きる者の受難
5章 破局への道(ヴィア・ドロローサ)
6章 衝撃波
7章 出頭した射殺犯と残る謎
次回からは、上記の各章ごとに書評を書き、優れた書物へのさらなる応答をなしていきます。
戸田神父が学んだ旧制開成中学、現在の開成中学・高校で私は学び、その間、キリスト信仰に導かれ、開成聖書研究会で信仰の養いを与えられました。そのような背景を持つ者として、戸田神父が旧制開成中学で学んだ意味を考えざるを得ません。
その開成中学・高校の初代校長である高橋是清(これきよ)についての一つの興味深い文章が、『封印された殉教』上下巻が出版されるのと時を同じくして、クリスチャントゥデイに掲載されました。以下の文章です。
1905(明治38)年のある日のことだった。日銀総裁の高橋是清(これきよ)がニューヨークからはるばる汽車に乗ってニュージャージー州イーストオレンジにヘボンを訪ねた。90歳になったヘボンは、高橋の来訪を聞くと、きちんとフロックコートを着て、ややあぶなげな足取りで階段を降りてきた。
「オオ、高橋サン、ヨク来テクレマシタ」。彼は久しく使わなかった日本語であいさつし、彼を抱擁した。「先生、お元気そうで何よりです」。高橋は恩師のしわくちゃな手を握った。ヘボンの目に、クララ塾に初めて来て、きちんと手を突いて教えを乞う12歳の和喜次(高橋の幼名)の姿がよみがえり、思わず微笑した。
「先生、私は公務の間にも、先生から昔教えていただいた聖書の物語や賛美歌を思い出すんですよ」。彼は言った。それから、彼のもの問いたげな目は、室内から奥の部屋に向けられた。
「クララ先生は、お元気でしょうか?」。ヘボンの顔は曇った。「妻は入院しています。会ってももう何も分からないでしょう。彼女は脳神経が壊れていますから」。高橋は痛ましそうにしばしうなだれていたが、顔を上げると言った。
「日本は変わりました。文化の向上は驚くべきものがあります。それが日本を良い方向に導くのか、悪い方向に導くのか分かりませんが、先生が訳してくださった聖書はどんなに世の中が変わろうとも、絶対的な価値観を示してくれるでしょう」
それから、2人はしばらく語り合った。「また、お会いしましょう」。「この地上で許されなければ、天の父の家で」。ヘボンは右手で天を指した。
しかしながら、これが師弟の最後の対面となった。日本に帰国した高橋是清は、2・26事件に巻き込まれ、陸軍の若い将校に射殺されてしまったのだった。
クララの容態は日を追って悪化していった。かつて成仏寺前で頭を強打された後遺症から頭痛、不眠、神経障害に長らく悩まされてきたが、日常生活にも支障をきたすようになったことから、ずっと入院生活を送っていた。
そして、高橋の訪問があった翌年の3月3日。駆け付けて手を握るヘボンの顔も分からないまま、彼女は病院で最期を迎えたのだった。(「ヘボンと日本語訳聖書誕生の物語(最終回)エピローグ―炎の遺書」より)
開成の卒業生の中にキリスト者が目立つことは、同窓のキリスト者の間では承知されている事実です。長年、キリスト新聞で働いてきた榎本昌弘さんが、それを労作『開成とキリスト教』としてまとめ、自費出版しています。ところが、この興味深い書物の中でも戸田神父については、何も言及されていないのです。
下巻を思いを込めて読み進め書評を書こうとしながら、高橋の遺志を継承した特別な先達として戸田神父を心に刻みたいのです。
■ 佐々木宏人著『封印された殉教(下)』(フリープレス社、2018年10月)
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