権威に対する服従や従順の問題は非常に重要である。人々の上に君臨したい指導者たちは、服従を強要する。権威を持つ者にとって服従がどのような意味を持つかを理解しない多くの人たちは、単純に服従へと流されてしまう。悲しいことに、キリスト教界においても同様である。
人間的権威に対する服従には限度がある
ローマの信徒への手紙13章で、使徒パウロは権威に対する服従について、「上に立つ権威に従うべき」だと教えている。
「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。 実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。 権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。 だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。 あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです」(ローマ13:1~6)
しかしながら、この聖句を自分に都合よく曲解する者が出てくる。私たちは、聖句を大きな視野で全体を通して見ていかなければならない。人間的権威に対する服従には限度があるのだ。
私たちの究極の主人は神ご自身である
ローマの信徒への手紙13章を読むことによって、神が被造物全ての上にある最高権威である事実を無視する人も出てくるかもしれない。第一に権威を制定したのは神であって、裕福な者であれ貧しい者であれ、大人物であろうと、そうでなかろうと、全ての者が神にまず服従すべきである。
確かに、神は指導者に対する服従を求めるが、その一方で、私たちは神の権威が他のいかなるものよりも高位にあることを認識しなければならない。私たちは、人間的権威に不服従であることを理由に、その権威者から罰せられてしまうことを恐れるかもしれないが、主なる神の手に渡されてしまうほうがより恐ろしいことである。
端的に言えば、人間的権威への服従は、神の権威に対する服従によって制限されなければならないということだ。考えてみよう。人間に従うために神に逆らうことを良しとするのか? それとも、ただ主なる神に喜ばれることをするために、あえて人間の支配に逆らうのか?
私たちは神が罪を憎まれることを知っている
そこで、この記事のタイトル「私たちは指導者の罪深い命令に従い続けるべきか?」という問題に至る。愛すべき友人の皆さん、その質問には、こう答えよう。「私たちは神が罪を憎まれることを知っている。であれば、あなたがたが仕える主とはいったい誰なのか?」と。
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである」 (マタイ6:24)