クリスマスの季節になりました。この度は、クリスマスのメッセージをお届けいたします。
「マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」(新約聖書・ルカの福音書2:6、7)
クリスマスのメッセージは、私たちの価値観・人生観を一新・一変させるものがあります。「キリストが幼子として降誕した」という事実が、神のメッセージだったのです。
そのメッセージとは、「幼子のような〝弱さ〟」こそ「力強い神の保護と活動が伴う」というものです。
話し言葉で言えば、「あなたはもう自分の弱さを悲観するな。弱さの中にあり続けることを失望する必要はない。今までは知らなかっただろうが、私が幼子イエスを保護し、運び、偉大な働きに遣わしたように、あなたにもそうしよう」となります。
なぜ、救世主が幼子として登場したのでしょうか? なぜ、このようなメッセージを神が届けたのでしょうか?
それは、私たち人間が、「強さ」にあこがれ、「強さ」を求め、「強さ」を身に付け、「強く」なりたいと思っているからです。
「弱さ」「弱い姿」「力がない」ということに対しては、マイナスイメージを持ちやすく、「弱さ」に価値を見いだせないままでいたからです。
聖書は、真実を語る神の言葉です。
むしろ、「弱さ」こそ、力と知恵と愛に満ちた神が、その本領を発揮する舞台とされてきたのです。
神はそのことを、旧約聖書においてはイスラエル民族を用いて物語として紹介され、また預言者やダビデたちを用いて「神の言葉」として紹介されました。
イエス・キリストの降誕、登場も、私たちに「幼子」を見せることで、幼子にある「弱さ」こそ目に見えない神の力が伴うものとして、「弱さ」の存在価値を伝えているのです。
私たちは「力がない」「居場所がない」「関心を持ってくれる人がいない」「嫌がらせをする人がいる」ということに不安を感じ、恐れ、そうならないために対策を考え、努力し、活動します。
そんな私たちだからこそ、あえて神は、救い主の降誕に、次のようなストーリーまで盛り込まれました。
力を身に付けていない「幼子」としてキリストをこの世に送り、生まれるための部屋が無く、温かなベッドも無く、歓迎する者もほとんどいない。しかも、殺害計画まで立てられていた。
けれども、これら一つ一つの不安要素は、神の計らいにより、すべてクリアされていきました。
「ほら皆さん、皆さんも『この幼子』同様、力を身に付けなくても、自分で自分を守ろうとしなくても、神である私が、『この幼子』を守り、運び、大切な働きをさせたように、あなたがたを守り、運び、大切な働きに遣わしましょう」と呼び掛けるメッセージが込められていたのです。
「幼子」とは、母親や誰かが手厚く面倒を見なければ生きていけない存在です。幼子キリストも、夫ヨセフと母マリヤの手厚い保護の中で育ちました。
私たちもかつてはみんな幼子で、誰かの保護なしでは生きていけなかった存在でしたが、成長するにつれ、自分で考え、自分たちの力に頼り、保護される必要性が希薄になりました。
ですから、ほぼ無意識のうちに、自分たちの知恵や力に頼ってきました。
2015年のクリスマス。あなたはどう迎えますか? 神様は、現代も、私たちに「幼子イエス・キリスト」を見せています。あなたも「幼子」になり、神様に保護される側に立ち返りませんか? それは、保護されるだけではありません。あなたに、今までにない新たな人生が用意されます。
神様の祝福が、あなたとあなたの身近な人たちにありますように。
「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう」(マタイ18:3、口語訳)
「この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである」(マタイ18:4、口語訳)
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森正行(もり・まさゆき)
1961年兵庫県西宮市出身。建設専門学校卒。不動産会社、構造建築事務所にて土木・建築構造設計部門を5年間勤務。1985年受洗。関西聖書神学校卒。岡山・岡南教会にて伝道師・副牧師3年間奉仕。1995年より現在、日本イエス・キリスト教団宮崎希望教会牧師。