国際基督教大学(ICU)の宗教音楽センターと、同大キリスト教と文化研究所の共催による公開講演会「私たちは世界の半分しか見て来なかった:音楽家と生命科学者の親密な対話」が16日、同大アラムナイハウス(東京都三鷹市)で開催された。講師に、作曲家で鍵盤楽器奏者の武久源造氏と、同大の卒業生で生命科学を専門とする大阪大学名誉教授の荻原哲氏を招き、音楽家と生命科学者の対話形式による講演が行われ、講演後には武久氏がジルバーマン・ピアノとチェンバロによる演奏を披露した。
2013年に献学60周年を迎えた同大は、記念事業を11年から15年までの5年間にわたり展開している。今回の講演会もその一つで、あいさつに立った日比谷潤子学長は、記念事業は「大学の使命・創設者との時空間を超えた対話」「分野間の対話」「少人数教育における教員・学生間の対話」「文明間・宗教間の対話」「東アジアにおける対話」と、5つの次元における対話をテーマにしていることを伝え、「今日の講演会でも教員と学生、分野間での対話がなされることを期待している」と語った。
講演会はまず、武久氏が編曲したバッハの無伴奏チェロ組曲第1番のチェンバロ演奏から始まった。武久氏は、「『生きた演奏』と『死んだ演奏』と言ったとき、この『演奏』を『細胞』に置き換えることができないか、生命科学者の荻原さんに聞いてみたいと思った」と、2人が出会い、対話をすることになったきっかけを話した。一方、荻原氏は、「音楽の出来事を軸として、その他の出来事を眺めると面白い。例えば、ニュートンとバッハは同じ時代に生きていて、科学界にバッハの音楽がどんな影響を及ぼしていたのか大変興味深い」と、歴史の違った見方を語った。
こうした2人の対話は、異なった専門分野で互いが持つ疑問を共有するところから始まったという。その疑問とは、「生きた音楽と死んだ音楽は、何が違うのか?」「生命科学は、生きた命を探求できるのか?」「音楽学は、音楽命を理解することができるのか?」「音楽は命であり、命は音楽であるか?」「音楽によって、生命を理解することができるのか?」の5つ。その中で、「証拠を積み上げて論証しなければ学問ではない」という常識を抜け出し、「証拠に依存しない主張を支える何者かは確かに存在する」とし、「その確かに存在するもの」を「XXXX」として対話を進めていったという。
そして2人は、「命とは物質ではない」と仮定。その中で「現象としての命」に注目し、「生命は、エビデンス(evidence)を積み上げても理解できず、突発的特性を持って未来に創造されるものを見たとき、初めて理解される」と話が展開していったという。そして、「XXXX」の正体についてさまざまな方向から探求した。しかし結局は、講演会のテーマである「われわれは、世界の半分しか見てこなかった」ということに辿り着き、あらためて「XXXX」を、「われわれが見ていない、あるいは無視してきた半分」と呼ぶことにしたと話した。
そして、この「見てこなかった世界の半分の存在」をどのように発見したのか、2人はこれまでの対話の流れを幾つかのステップで紹介した。
まず、音楽修辞学と生命科学の詳細な擦り合わせから始まり、互いが持つ言語世界の違いに気付き、その後、2人が依拠する学問は、「エビデンス」と「XXXX」だということを発見した。そして、「証拠」とは見えるものでなければならず、触れて理解したことは証拠にはならないことが分かり、触覚によって世界とつながっている人間の言語の中に、「XXXX」が何かを知る機会があるのではないかという考えに至った。そう考えるとき、1歳の時に失明し目の見えない武久氏が、最も「XXXX」を理解しやすい人間になるのではないかという話になったという。
さらに具体的に、「自己組織化(self-organization)」という生命の非物質的特徴が音楽でも存在するのかを検証した。武久氏は、「音楽は演奏だけでなく、聴衆、マネージメントも含むコンサート会場、マスコミも含む音楽業界など、音楽全体を支える生態系のようなものがある」と指摘。「その生態系がきちんと機能していないと、音楽は死んでしまう」と話し、「忘れ去られた音楽などはこういったことが原因だ」と説明した。
一方、演奏にエネルギーが注ぎ込まれ、生態系のそれぞれの要素が一つにつながって、非常に美しい形になる瞬間があるという。「これを1回でも経験すると、『音楽は生きている。自分はその現場に立ち会った』という気持ちになり、この瞬間、音楽に魅入られてしまう」と武久氏は話し、「このことは荻原さんの言う生命科学における自己組織化に合致するのではないか」と語った。
そして、この日の議論の決着点として、「われわれは宣言する。音学と生命は同じ先祖を持つ」と荻原氏がまとめた。最後に学際的な(transdisciplinary)議論をするためにはどうしたら良いのかを、同大の卒業生として荻原氏が語った。「分割されたそれぞれの集団は、クリエイティブではない。そこから抜け出すためには、『ひたすら飛翔せよ。自分のディシプリン(discipline=学問領域)から離れよ』ということだが、これらは非常に勇気がいること」だと荻原氏は述べつつ、「遠くにいるディシプリンの友と親密に対話する」必要性を強調した。
講演の後、ジルバーマン・ピアノとチェンバロで武久氏が演奏を披露した。ジルバーマン・ピアノは、チェンバロ、クラヴィコード、フォルテピアノという18世紀前半に存在した3つの楽器の特徴を併せ持つ鍵盤楽器。武久氏は、「この楽器はいまだに評価は定まっていないが、滅びてしまう楽器ではない」と、このピアノの構造的特色などについて説明した。一方、演奏の都度調律をしないと音がどんどん狂ってしまうが、「調律でエネルギーを補充し、秩序が保たれると非常に美しい音楽になる」と保証した。
最初に演奏したのはバッハのトッカータ。武久氏は、「この曲はキリストの受難を表している」と述べ、キリストが十字架で息絶えたときに落ちた雷、また天幕が引き裂かれる音を示している箇所があると指摘した。しかし、楽譜の上だけでは証明が不可能だとし、「そう思って弾いている自分の演奏に皆さんが共感できるかだ」と語った。さらに、「私がずっとそう言い続けることで、そのうちトッカータはキリストの受難を表した曲だということが常識となるかもしれない」と言い、ベートーベンの「月光」を例に、音楽のイメージがそのように作られてきたと話した。
トッカータの後には、バッハの「パルティータ」と「シャコンヌ」が奏でられ、会場はひと時、バロックの世界に包まれ、演奏後には称賛の拍手が武久氏に送られた。