神のものは神に
ルカの福音書20章19~26節
[1]序
今回、私たちはルカの福音書20章19~26節を味わいます。福音書そして聖書全体は政治的、経済的な背景の中で生じた出来事を記しています。私たちは同じく私たちの政治的、経済的な背景の中で聞き従おうとしています。
[2]主イエスへの質問・たくらみ(19~22節)
(1)「機会をねらっていた彼らは」(19、20節前半)
19節は18節までのたとえの結びであると同時に、20節以下に見る主イエスへの質問・たくらみの序で、橋渡しの役割を果たしています。
①「計った」
彼らの意図・方法。「義人を装った間者(回し者)」を利用する方法。ここで用いられている、白黒がはっきりしない人々は、いわゆる自他ともに認める悪人より危険な存在です。
②「総督の支配と権威にイエスを引き渡そう」との目的
ローマは帝国内の治安の不安定な地域を皇帝領(安定した地域は元老院領)とし、皇帝が直接総督を派遣したと言われます。聖地の第2期ローマ支配の時代(紀元6~66年)、ユダヤ州の総督はランクは低く、隣接のシリヤの総督の監督下にあり、騎士階級出身の実業家が皇帝個人の財政係として(参照ルカ3章1節)、取税人や兵士を実務にあて徴税にあたりました。また重大事件では裁判官の役をなし(ルカ23章1節)、ローマの軍事、経済、司法の権威を身をもって表していたと見てよいでしょう。この時の総督ポンテオ・ピラト(参照使徒信條)は、皇帝テベリオにより第5代目の総督として任命された人物です。
(2)主イエスへのへつらい(21節)
「間者」(「回し者」)たちの主イエスへのことばの内容は、本当のことです。しかしこの賛辞の中にあるいは背後に巧みなわなが隠されています。20節に見る目的のため、公の場で主イエスのことばじりを押さえ、自分達の都合に合わせ誤用、さらに悪用しようとするのです。23章2節の偽証のことば、「この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかりました」は、彼らが主イエスのことばを悪用している様を示しています。
(3)直接の質問の内容
「私たちが(ルカ特有)カイザルに税金を納めることは、律法にかなっていることでしょうか」(22節)。
①「カイザル」
ユリウス・カエサル(英語読み「ジュリアス・シーザー」、紀元前100~44)にちなみ、皇帝の称号として定着。ここではローマ帝国の支配者としての皇帝を指しています。
②「税金」
旧約聖書の時代、王国の成立以降は納税が強制されるようになりますが(Ⅰサムエル8章10節以下)、自発性も強調(Ⅰサムエル10章27節、16章20節)されています。政治的独立を失った後は、アッシリア、エジプト、バビロニアなどの王たちに貢物を納め、また総督に税や上納物を納める必要がありました。紀元前6年、ポンペイウスにより征服され、ローマの支配下に入れられてからは、新しい制度の納税義務を課せられるようになりました。クリスマスの記事の一つとして親しい住民登録・人口調査(ルカ2章1節以下)も税制の基礎としての調査です。
当時直接税と関税をローマの総督に、さらにヘロデ家も依然としてある種の徴税をし、神殿税(出エジプト記30章13節、マタイ17章24節)も納めていました。こうした背景の中で、ローマからの独立を武力をもってでもと求める熱心党と同類であると主イエスにレッテルを張り、ローマの総督の権威に渡そうとするのです。
[3]カイザルのものはカイザルに、神のものは神に(23~26節)
(1)「イエスはそのたくらみを見抜いて」(23節)
直訳は、「注意深く観察する」。(霊的な意味で)考え、気付く(参照ヘブル3章1節、10章9、24節)。相手に対するより直接的なことばがマタイとマルコの福音書には記されています(マタイ22章18節、マルコ12章15節)。
(2)「カイザルのものはカイザルに」(24、25節前半)
その根拠として、24節。納税用に用いられたデナリ銀貨に記された皇帝の肖像は、皇帝の支配・権威を示しています。熱心党と呼ばれていた人々は、ローマの権威を一切認めようとせず、武力を持ってでもローマの支配から脱出すべきことを主張、彼らの指導の下ローマに対して反抗の火の手を上げ、結局紀元70年には、エルサレムもその中心である神殿も徹底的に破壊されてしまいます。こうした背景の中で、主イエスにとり熱心党との違いを明らかにするのは、困難であっても必要な道でした。参照ローマ13章1~7節、Ⅰペテロ2章13~17節。
(3)「神のものは神に」(25節後半)
「神のものは神に」の意味として、皇帝への納税との対比で神殿税のことを指しているとの理解があります。しかし現実の神殿が本来のあるべき姿を示さず、そのまますべてを認めて神のものと言い切れないことは、宮潔の一事(19章45、46節)からも明白です。
もう一つの理解は、人間は本来神の似姿として創造され(創世記1章27節、Ⅰコリント11章7節)、言わば神の刻印を身に受けている。この神のものである人間そのもの(基本的人格)は誰も奪うことは出来ず、本来神ご自身に喜びのささげものとして献身の道を歩む(ロマ12章1、2節)との理解です。
いずれにしてもカイザルのものは、神から委ねられたものであり、カイザル自身本来神に対する責任を負うのです。
この点について、平良修牧師の著書『沖縄にこだわりつづけて』に収められている祈りが大切な示唆を与えてくれます。その一部だけですが、紹介いたします。
「神よ。沖縄にはあなたのひとり子イエス・キリストが生命をかけて愛しておられる100万の市民がおります。高等弁務官をして、これらの市民の人権の尊厳の前に深くこうべを垂れさせて下さい。そのようなあり方において、主なるあなたへの服従をなさしめ下さい」
[4]結び
(1)「見抜いて」
間者の背後に彼らを派遣した勢力の存在、さらに荒野で誘惑したものの存在(4章6、7節)を見抜いておられたと判断して良いでしょう(エペソ6章11、12節)。
(2)「カイザルのものはカイザル」
カイザルは英語では、エンペラー(皇帝)です。日本の天皇の英訳もエンペラー。今日における天皇制において、「カイザルのもの」は何でどうあるべきかを知り、その逸脱を見抜く必要があります。
(3)「神のものは神に」
単に神殿税のことを主イエスは話しておられるのでないと理解しました。神の像に創造された、特別な存在としての人間。まさに神の肖像を刻印されていると言っても過言ではないでしょう。
主日礼拝そしてすべての礼拝は、「神のものは神に」の一事に徹する道です。まさに神の恵みに対する応答として献身の道であり営みです。それぞれの与えられた持ち場や立場で、神のものは神へと主なる神の主権に答えつつ進む、何者にも奴隷とされない自由とそれぞれの場で仕えて行く、しもべの道です。
宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。