その都のために泣いて
ルカの福音書19章41~48節
[1]序
今回は、ルカの福音書19章41~48節を、主イエスがエルサレムのために嘆く「その都のために泣いて」(41~44節)と「宮潔めとその後」(45~46節:宮潔めそのもの、47~48節:主イエスの宮での教え、祭司長、律法学者、民のおもだった者たちの反応)の二つに分け、味わいます。
[2]「その都のために泣いて」(41~44節)
(1)主イエスの行為(41、42節)
(エルサレムに)近くなったころ、
(イ)都を見、
(ロ)都のために泣いて、
(ハ)言われた。
主イエスの三つの行為を重ねて表現し強調しています。特に「泣く」に注意を引かれます。主イエスが泣かれたと直接示しているのは、新約聖書の中でヨハネの福音書11章35節とこの箇所のみです。
弟子たちの間から沸き上がる喜びの賛美(37節)と対照的です。「天には平和」との賛美の声の中で、主イエスの目は地上の現実に注がれています。
(2)日、時について
主イエスの言われたことば(42~44節)の中で、「日」、つまり時や期間に触れておられるのが目立ちます。
「この日のうちに」(42節)、「しかし今は」(42節)、「日が、やって来る」(44節)、「訪れの時」(44節)など、主イエスは、時や期間、歴史に十分注意しながら話を展開されています。過去のエルサレムの陥落の出来事を振り返り、未来のエルサレムの陥落を予見しながら、今目の前に見るエルサレムに対する思いを示しておられます。
エルサレムへの思いは、「おまえ」と個人的な関係を表すことばの繰り返し(訳されていない「おまえの回り」「おまえの中のおまえの子ども」を含め)からも明らかです。
(3)敵の攻撃について
①描き方
42、43節で主イエスが指し示しておられるのは、紀元70年のローマ軍によるエルサレム陥落と考えられます(21章20節以下参照)。この未だ現実となっていない出来事を過去のエルサレム陥落を伝えている預言者たちのことばを用いて(イザヤ29章1~4節、エレミヤ6章6~21節など)伝えておられます。
②敵の攻撃の理由、原因
「それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ」と、敵の攻撃の背後に神の御手を認めておられます。
「神の訪れの時」とは、主イエスが宣べ伝えた救いの時のことで、その知らせを認めず受け入れないと、さばきを招くことになります。42節では、「この日のうちに、平和のことを知っていたのなら(しかし実際には知っていないのだ)」と主イエスは話しておられます。「平和のこと」とは、エルサレムの平和になり、救いとなることの意味で「神の訪れの時」と同じことを指していると考えられます。
[3]宮潔めとその後(45~48節)
(1)宮潔め(45~46節)
マタイ、マルコの場面に比較し、短く端的。ルカは必要最低限のことに限り描いています。
①「商売人たちを追い出し」
主イエスは何を攻撃なさったのでしょうか。背景として、当時神殿で行われていた礼拝の実状を知ることが助けになります。
②主イエスのことば・行為の理由
「わたしの家は、祈りの家でなければならない」(イザヤ56章7節)。本来の神の宮のあるべき姿が示されているのに対して、現実には「あなたがたはそれを強盗の巣にした」(エレミヤ7章11節)。
(2)その後(47~48節)
①「イエスは毎日、宮で教えておられた」
ルカは、主イエス(メシア)が神殿で教えられることを重視し、エルサレムの陥落が預言されています。
しかし最後はまだなのです。機会が与えられています。エルサレム陥落の理由として、真の知識の欠乏があげられている(42、43節)事実からも、主イエスが神殿で教えておられるのは意味深いことです。何を教えられたか、その内容は20章、21章にまとめられています。
②「祭司長、律法学者、民のおもだった者たち」の反応
彼らは、共同戦線を張り、「イエスを殺そうとねらっていた」のです。この三つのグループは、サンヘドリンと呼ばれる最高機関を構成しているメンバーでした。彼らと主イエスのやりとり、彼らに対する主イエスの答えは、20章1~18節に記されています。
[4]結び
(1)賛美と嘆き
前回私たちは、「喜んで大声に神を賛美する」(37節)者の群れとしての弟子たちの姿を教えられました。その賛美の背景の中で、主イエスご自身がエルサレムのために泣いておられる事実を示されております。
賛美を受けられるお方・主イエスの嘆き。嘆きの主イエスは、十字架の道を歩まれるお方です。賛美する群れである主イエスの弟子たちは、同時に主イエスの嘆きを知る群れでもあるべきです。
(2)宮潔めと民への教え
礼拝の場としての神殿・教会は、すべて民の祈りの家です。またそこで主イエスの教えが明らかにされる場です。それ以外の目的にずれてしまうなら、主イエスご自身による宮潔めが必要とされます。当時の人々が期待した、ローマからの解放を実現するメシヤとは違う、十字架の主の姿をここに見ます。
そして、教会は本来の姿からずれる可能性が常にあり、その実例を見ます。ですから、聖霊ご自身とみことばの導きを受け、常に改革され続ける教会こそ、目指すべき教会の姿だと先輩たちは求め続けました。私たちもこの道を進みたいのです。
宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。