ミナのたとえ
ルカの福音書19章11~27節
[1]序
今回はルカの福音書19章11節から27節を味わいます。まず11節に注目し、「ミナのたとえ」を主イエスが話される背景を見ます。またマタイの福音書25章14~30節の「タラントのたとえ」も参考にして比較しながら、「ミナのたとえ」の独自の教えを受け止めたいのです。
11節に、「イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現われるように思っていた」とあり、当時の人々の神の国についての理解を示しています。主イエスは、このような誤解に対して、「ミナのたとえ」を通し、王であるご自身が否まれること、弟子たちと離れるが(18章31節以下)、彼らに使命を与えている二つの事実を中心に教えておられます。
[2]ある身分の高い人
(1)「ミナのたとえ」において、「ある身分の高い人」と言われている人が主イエスを指していることは明らか。
(2)14節、身分の高い人に対する国民の反感。
(3)27節、拒絶が招く結果。主イエスがエルサレムに行くとき、「神の国がすぐにでも現われる」(11節)との考えに対して、主イエスはエルサレムでの十字架を見定めておられます。十字架を通しての王。
[3]主人の留守の間のしもべの使命
「きょう、救いがこの家に」(9節)、しかし神の国の完成(主イエスの再臨)まで期間があり、使命を果たす役割を与えておられる。
(1)しもべは等しく十ミナを与えられる。「タラントのたとえ」の場合との違い。一人一人、与えられているものが異なる面とすべての人が全く同じものを与えられている面の両方がある。「ミナのたとえ」は後者について。
(2)求められていることは、与えられたものを生かして用いること(「これで商売をしなさい」13節)。また「ほんの小さな事にも忠実」(17節)。
(3)悪いしもべの場合
①与えられているものを用いない(20節)。
②主人に対する思い違い、「きびしい方・・・お預けにならなかったものを取り立て、お蒔きにならなかったものを刈り取る方」(21節)。実際は、ミナやタラントを委ねておられる。
[4]結び
(1)神の国についての理解。「すでに」現実となっている面と、「いまだ・・・やがて必ず」の面。
(2)だれにでも等しく与えられている神の恵み、賜物。それを生かして用いる特権と責任。
宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。