それが礎(いしずえ)の石
ルカの福音書20章1~18節
[1]序
今回は、ルカの福音書19章47~48節をさらに詳しく展開している20章1~18節を読み進めます。1~8節と9~18節の二つに分け内容を見ながら、全体として、主イエスが神の「愛する子」としてご自身について自覚、そのように人々に明らかにしておられる事実に意を注ぎます。
[2]「何の権威によって」(1~8節)
(1)主イエスへの挑戦
主イエスは、宮で、「民衆を教え、福音を宣べ伝えておられた」(1節)のです。この事実は、マタイも同じく記しています。しかし教えの内容を「福音を宣べ伝えておられた」と説明しているのは、ルカの福音書だけに見る特徴です。宮・教会での教えが、本来福音の宣教であるべきと教えられます。
このように主イエスが教えておられるとき、主イエスの権威への挑戦がなされる様をルカは再び(参照19章47節)描きます。「祭司長、律法学者たちが、長老たちといっしょに」(1節)とあるのは、彼らが最高議会・サンヘドリンの構成メンバーであるところから、公式の代表の派遣であることを示しています。
「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください」(2節)と、「権威」を二回繰り返し強調し、何が問題になっているか明らかにします。この「権威」をめぐっては、主イエスの公の宣教活動のはじめ荒野の誘惑において、悪魔が触れてきたところです(4章6、7節)。主イエスの権威こそ、この箇所、福音書全体、さらに聖書全体の中心の課題なのです。
(2)主イエスの答え(3~7節)
①「わたしも(強調、あなたがただけなく)一言尋ねますから、それに答えなさい」(3節)。質問に対して逆に質問をもって答えるのは、当時ユダヤ教教師(ラビ)の間で、一般的な方法だったと伝えられています。
主イエスの質問は、バプテスマのヨハネをめぐるものです。バプテスマのヨハネは主イエスの先駆者であり、人々の彼に対する態度により主イエスに対する態度(その人がどのように主イエスの権威を理解しているか)は明らかにされるわけです。「知らない」と彼らが返答する背後にある問題(ジレンマ)が明らかにされて行きます。
②「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい」(8節)と、直接答えないことを通し主イエスは答えられます。さらに9節以下のたとえで、主イエスの権威は明らかにされます。後には、この点についてはっきり直接お答えなさいます(22章70節)。
[3]「それが礎(いしずえ)の石」(9~18節)
(1)「また、イエスは、民衆にこのようなたとえを話された」(9節)
マルコの福音書(12章1節)では、聴衆はユダヤ人の指導者たち。しかしルカの場合も、このたとえが誰に向けてのものかは、19節に見るように明らかです。さらに、「ぶどう園の主人」が父なる神、「愛する息子」が主イエス、ぶどう園がイスラエル(13章6節、イザヤ5章1節)、農夫が指導者たちを指すことは明らかです。
①「ぶどう園(13章6節)と農夫(小作人)」のたとえは、当時ガリラヤ地方に不在地主が少なくなかったことからも人々に理解しやすいたとえであったと言われます。
②「ぶどう園の主人」(13節、15節で繰り返し強調)が派遣するしもべ(預言者)に対して、農夫たちの態度は段々ひどくなって行きます。「袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した」(10節)、「袋だたきにし、はずかしめたうえで、何も持たせないで送り帰した」(11節)、「傷を負わせて追い出した」(12節)。
③このたとえのクライマックスは、13節に見る「愛する(ただ独りの)息子」の派遣です。13節は、「ぶどう園」の主人の独白で、「彼らも、この子はたぶん敬ってくれるだろう」と期待が示されています。
ところが農夫たちは、「あれはあと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ」(14節)との考え・判断に立ち、「彼をぶどう園の外に追い出して、殺してしまった」(15節)と殺害に及ぶのです。
その結果は、16節前半に示すさばきであり、16節後半には民衆の強い反応を明らかにしています。主イエスは、神の愛する独り子(3章22節、9章35節)として特別の立場を明らかに意識し、そのように教えておられます(参照ヨハネ5章18節)。
(2)「家を建てる者たちの見捨てた石」→「それが礎(いしずえ)の石」(17~18節)
この石が主イエスを指しているのは明らかです。
①詩篇118篇22節は、使徒の働き4章11節、Ⅰペテロ2章7節でも印象深く引用されています。両者の前後の文脈を注意し読み味わいましょう。
②18節は、ダニエル2章34節や44節以下を反映していると考えられます。主イエスは、ご自身を神の愛する独り子として特別な立場(真の神として)を明らかに意識し教えたばかりでなく、主イエスを拒絶する人はその結果を身に招くと明言なさいます(参照ヨハネ3章16~21節)。
[4]結び
主イエスは宮で教えられました。福音書は主イエスの教えを記録しています。何を教えられたのでしょうか。その一つの大切な中心はご自身についての教えです。しかもその内容は、驚くべきものです。ご自身は神の愛する独り子と明白に教えています。ルカの福音書全体も、この主イエスの意識・教えを指し示しています。20章13節以外にも以下の箇所など。
2章32、35節
3章22節
4章3、9、41節
8章28節
9章35節
10章22節
22章70節
主イエスをどなたと理解するか。主イエスを主(私の本当の主人・王)として受け入れるのか拒絶するのか。私たちは傍観者としての態度をやめ、それぞれ個人的に態度を決定することを迫られています。
ヨハネの福音書1章12、13節に、明らかに福音が示されています。応答あるのみです。
宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。