弟子たちには気になって仕方がない質問があった。彼らは、そのことについて歩きながらしきりに議論し続けた。「この中ではだれが一番偉いだろうか」。
このことが示すのは、彼らが十字架を負う意味が、全く分かっていなかったことである。この議論はカイザリヤからカペナウムの途中でも議論されたし、カペナウム滞在期間もエルサレムへ向かう途中でも、エルサレムに入ってからも、何と最後の晩餐の後でも繰り返されたのだ。
また、ゼベダイの子たちヤコブとヨハネ兄弟が、一緒にイエスのもとに来てひれ伏し「あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりはあなたの左にすわるようにおことばを下さい」と嘆願したのだ。
しかも、イエスが「人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡す。すると、かれらはあざけり、つばをかけ、むち打ち、ついに殺してしまう」と語った直後なのだ。他の弟子たちは彼らにひどく腹を立てたのであった。
イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて「この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人なのだ」。また、母親たちが「手を置いて祈ってもらうために子どもたちを連れてきた」時に、弟子たちは子どもたちを邪魔者扱いにして追い払った。しかし、イエスは「天の御国はこのような者たちの国です」と言って、手を子どもたちの上に置いた。
イエスは教えた。「あなたがたのうちに一番偉い者は、あなたがたに仕えるものでなくてはなりません。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」「あなたがたで偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい」。
そして、その教えを自分に当てはめて言った。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのだ」。
このように主は、自分を低くすることと、子どものようになることと、しもべになることと、仕えることと、いのちを与えることを結びつけられた。これこそ、十字架の意義であり、十字架を負う者の具体的な生きざまなのだ。ご自分が低くすることの模範にならなければならないことを、イエスは知っていた。
イエスは忍耐深かった。分からずやの弟子たちに丁寧に繰り返し教え続けた。しかし、一番になりたい願望が強い彼らに理解できるはずがなかった。この教えが少しでも理解されるためには、彼らは、否が応でもどん底に落とされるような低くされる経験をしなければならなかった。
また、彼らが十字架の意義を悟るためには、イエスの十字架を目撃しなければならなかった。イエスがピリポ・カイザリヤ以来繰り返し十字架について語っても、彼らの頭にも心にも浸透しなかった。彼らはイエスが十字架に付けられるまで、それが実際に起こるとは思っていなかったのだ。
この愛に満ち人々を助け続けた方が神を冒涜する者として、またローマに反乱をおこす首謀者として、十字架に架けられることがありうるのだろうか。弟子たちが十字架を理解できなかったことは、無理がないことなのだ。
しかし、イエスの顔は真っすぐエルサレムに向けられ、イエスの足はどんどんと足早に十字架に向けて進む。もう最後の日まで一月もない。
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平野耕一(ひらの・こういち):1944年、東京に生まれる。東京聖書学院、デューク大学院卒業。17年間アメリカの教会で牧師を務めた後、1989年帰国。現在、東京ホライズンチャペル牧師。著書『ヤベツの祈り』他多数。