それは、人類歴史の中で最も重要な質問であった。この短い質問に対してどう答えるかが、その人の一生を決めるなら、その上永遠まで決めるなら、それは最も偉大な質問に違いない。
「あなたがたが、わたしをだれだと言いますか」イエスは弟子たちに尋ねた。
あなたはこの質問にどう答えたであろうか、または、どう答えようとしているのか。
今、連載しているこのイエス伝はこの質問に答えようとしているものだ。いや、答えようとしているよりも、質問しているというべきだろう。イエスは誰かを分かって書いているのではなく、イエスは誰かを知ろうとして探索しているのだ。決してansweringではなく、むしろseekingなのである。
私の執筆によって、読者に答えを与えようと試みているのではない。自分自身で、イエスを知りたいのだ。40年間も、イエスに熱中してきたのに、自分の筆でイエスを捕らえることができないあせりと焦燥感がつのるのだが、自分はどれだけイエスを知っているのだろうか。
この質問は、イエスの伝道生涯の分水嶺とも言える。この質問後、イエスの心はミニストリー中心から十字架中心へと焦点を変え、その足もエルサレムに向かうのだ。つまり、イエスの生涯の転換期に発せられた質問である。質問された弟子にとっても重要だったのだが、実は質問したイエスにとっても、弟子の答え方次第で自分の行動が左右されるものであった。
この質問が投げかけられたのは、なんとピリポ・カイザリヤであった。そこは、紀元前3世紀からギリシャ人の村落があり、ギリシャのパン牧神(半身が人、半身がヤギ)が祀つられた神殿が建てられていた場所であった。ピリポ大王の息子がローマの皇帝カイザルのために建立した神殿なのだ。
真っ直ぐそびえ立つ巨大な岩盤にえぐられた大きな黒点に見える洞窟があり、その前で犠牲を殺し、この洞窟に投げ入れていたのだ。以前はパ二タスと呼ばれていたが、今はバ二タスと呼ばれる地だ。
また、この地はヨルダン川の水源地でもある。この泉からあふれ出る豊かな水がヨルダン川に給水しているのだ。緑にも囲まれ、神秘的で幻惑的な光景をおりなしている。
ガリラヤから40キロメートル離れた場所に来たのは、イエスが民衆を避けて、弟子たちの心を十字架に備えるためであった。
まず、イエスは「人々は、人の子をだれと言っていますか」と、尋ねます。答えは、バプテスマのヨハネに始まり、エリヤ、エレミヤ、それ以外の預言者のひとりと、いろいろな人に及んだ。つまり、イエスは、人々にとって「偉大な預言者のひとり」に過ぎなかった。
続いた質問が「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」だったのだ。シモン・ペテロは間髪入れず、「あなたは、生ける神の御子キリストです」と答えた。
イエスは大変喜び、「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です」と、その答えを肯定した。
イエスのことばは続く。「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません」。
「ペテロ」という名は、イエスが与えたもので、石という意味だがむしろ小石を指す。「この岩の上に」とは、目の前に真っ直ぐ青空にむけてそそり立つ巨大な一枚岩のことだ。イエスは石の上にではなく、「この岩の上に」わたしの教会を建てると宣言した。
岩にくり抜かれた大きな洞窟は不気味に見えるのだが、人々は黄泉の国への入り口と思い、「ハデスの門」と呼んでいた。ギリシャ人は黄泉の国は地面下にあると信じており、暗黒の洞窟こそ黄泉への入口であると考えていた。彼らは「ハデスの門」で生け贄を捧げていたのだ。
イエスは何を意味したのだろうか。ペテロのような信仰告白者が「あなたは、生ける神の御子キリストです」という信仰告白を土台として、異教の神々を打ち破って、キリストの教会を建てることである。このことばは異教への宣戦布告であり、また勝利の確約なのだ。「ハデスの門」は、教会に決して打ち勝つことができない。
イエスのことばはさらに続く。「わたしは、あなたに天国の鍵を上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれます」。
ローマやイスラエルでペテロ像を見かけるが、必ずその右手に2本の鍵をもっている。
天国の鍵を託された者、それがペテロの特質であり、使命であり、また権威なのだ。彼は、ペンテコステの日に天国の鍵を使う。すると、聖霊がそこにいた120人の弟子たち全員に聖霊が注がれ、3000人のユダヤ人が信じ、聖霊を受けた。
ローマ人が住んだカイザリヤ(ピリポ・カイザリヤではない)でも、ペテロは天国の鍵を使った。すると、そこにいた異邦人全員が聖霊を受け、信仰に入った。ユダ人伝道の門戸を開いたのはペテロであり、異邦人伝道の門戸を開いたのもペテロであった。
それでは、どのようにこの鍵を使ったのか。もちろん、イエスはペテロに鉄でできた鍵を渡したわけではなく、霊的また象徴的な鍵を渡したのだ。使徒の働きを見れば明らかなように、ペテロが神のゆるしを宣言したときに聖霊が下っている。
ゆるしこそが天国の鍵であり、地上において解くなら、天のおいても解かれるのだ。地上におけるゆるしは天上と連動しているのだ。
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平野耕一(ひらの・こういち):1944年、東京に生まれる。東京聖書学院、デューク大学院卒業。17年間アメリカの教会で牧師を務めた後、1989年帰国。現在、東京ホライズンチャペル牧師。著書『ヤベツの祈り』他多数。