生まれつきの盲人に現わされたイエスの愛
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」(ヨハネ9:2~3)
この言葉を耳にした瞬間、盲人の重荷がポロリと落ち、一気に心が軽くなったに違いありません。彼の心に巣食っていた質問、それは「この苦しみは、誰のせいなんだ」でした。
弟子たちは確信を持って質問しました。「誰が罪を犯したからですか」。なぜなら、それは当時の人々の常識的見解だったからです。罪が原因なのは誰でも知っていることでした。しかし、イエスは真っ向から否定しました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません」。
この瞬間に長年の質問は答えられ、罪責感は拭われ、両親への恨みは消え去ったのです。全身が軽く浮くようにまで感じた、と私は思います。イエスは罪をゆるしただけではなく、罪意識も取り除いたのです。この男の場合は、全く不必要な罪意識、不必要な重荷です。目が見えないだけで十分重かったのに、それ以上の重荷は必要ありません。
原因は罪ではないと宣言された直後、「神のわざがこの人に現われるためです」と耳にした時、彼の心に光が射し、希望が広がり、またまた軽くなったに違いありません。
それから「わたしは世の光です」と宣言します。アインシュタインは「光電効果」の論文の中で、光は「波であり、粒である」ことを実証してノーベル賞を受賞しました。粒とは物質、物体のことです。光は光子とよばれる物体からなっているのです。こんな軽い物体があるとは不思議です。あまりにも軽いために人類は百年前まで物体だとは思ってこなかったのです。
このように、光の特徴は明るいことと軽いことです。英語で明かりをLIGHTと言いますが、なんとLIGHTは軽いという意味でもあります。存在の周りが明るくなるだけでなく、存在することも軽くなるのです。
イエスが「わたしは世の光」と宣言したときは、わたしを信じたら「明るくなるよ」というだけではなく、「軽くなるよ」ということも意味したのです。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)
高名な医師に数年前洗礼を授けましたが、不治の病があることを彼に知らされました。その後2カ月ほど生き延びることはできましたが、平安のうちに最後の息を引き取りました。病床についた一週間後、息子夫婦が来て上記の聖句を短冊に書いて父に渡したら、その時、主を受け入れたのです。波乱万丈の人生を生きてきた彼は、体だけではなく心も疲れ切っていました。私が、ユダヤ人は今日に至るまで安息日を守ることを律法にしていると伝えたら、「安息日を守っていたらこんなことにならなかった。医師として恥ずかしい」と言われました。
洗礼前に罪の告白をしたいですかと聞いたら、「愛が足りなかった」と言われましたが、サプリメント会社を経営していた彼は、翌朝家族全員と会社役員を集め「愛が足りなかった私をゆるしてくれ」と言ったそうです。実は、彼は洗礼前から優しく、患者には献身的な医師で日本中から病人がきました。
イエスは「わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」と言いましたが、安らぎとは心が軽くなることです。この医師も重荷から解放されて救い主のところへ行きました。
イエスはさらに「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」と加えます。聞いて存在が軽くなり、「神のわざが現われるため」と聞いて希望で明るくなるからです。
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平野耕一(ひらの・こういち):1944年、東京に生まれる。東京聖書学院、デューク大学院卒業。17年間アメリカの教会で牧師を務めた後、1989年帰国。現在、東京ホライズンチャペル牧師。著書『ヤベツの祈り』他多数。