24回にわたって執筆してきた本コラムも、今回が最終回になります。12章9~14節を読みます。
9 さて、コヘレトは知恵ある者であり、さらに知識を民に与えた。彼はまた多くの格言を探し出し、吟味し、分類した。10 コヘレトは喜ばしい言葉を見つけ出そうと努め、真実の言葉を正しく書き留めた。11 知恵ある者の言葉は、突き棒や打ち込まれた釘(くぎ)に似ている。集められた言葉は一人の牧者から与えられた。
12 わが子よ、これ以外のことにも注意せよ。書物はいくら記しても果てしなく、体はいくら学んでも疲れるばかり。13 聞き取ったすべての言葉の結論。神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。14 神は善であれ悪であれ、あらゆる隠されたことについて、すべての業を裁かれる。
編集者について
この箇所は、編集者の言葉であるといわれています。その理由は、「コヘレトは」と3人称で書き始められ、一気に最後まで続いているからというものです。しかし私は、9~11節は編集者の言葉だとしても、12~14節は、たとえ編集者の手が加わっていたとしても、コヘレト自身の思想が書かれていると思います。
なぜかというと、12節の「疲れる」(ヘブライ語で「ヤガ / יגע」)が、1章8節の「すべてのことが人を疲れさせる」の「疲れる」(同じくヤガ)とインクルージオ(囲い込み)構造になっていると考えるからです。
この冒頭と終わりにある「疲れる」という言葉が、コヘレトの言葉全体を挟み込む構造になっていると考えられます。世界の全てが人を疲れさせるという認識から始まったこの書は、多くを学んでも人は疲れるという内容によって閉じられているのです。これは両方とも、コヘレト自身の思想だと思うのです。学問的に結論付けることはできませんが、この回ではこうした視点に立ち、9~11節と12~14節を分けて読みたいと思います。
知者の言葉
編集者は、「知恵ある者であるコヘレトは、民に知識を与え、格言を探求してまとめ、真実の言葉を正しく書き留めた」(9~10節)と伝えています。「知恵ある者」とは、「ソロモン王の知恵の伝統に立つ者」を指し、1章1節の「ダビデの子、エルサレムの王」とインクルージオになっているのだと思います。
11節の「知恵ある者」は、原文では複数形です。イスラエルには、コヘレトのような、ソロモンの知恵を継承する人たちが複数いたのでしょう。その次の「突き棒や打ち込まれた釘」は、家畜を突いて操る棒と物を固定する釘です。知者の言葉は、家畜を操る棒のように人を動かし、物を固定する釘のように、人々の人生をしっかりと据えたということでしょう。
「集められた言葉は一人の牧者から与えられた」の「一人の牧者」は、神を指しているとする解釈が主流です。「知者の言葉は、最終的には神から与えられたもの」と受け止められていたということでしょう。ソロモン王の知恵も神から与えられたものであり(列王記上3章参照)、知者はその伝統に立つ者であるということでしょう。9~11節全体が、前述の1章1節の「ダビデの子、エルサレムの王」と響き合い、インクルージオ的な構造をなしていると思います。
静かな終わり
前述のように、12~14節はコヘレト自身の思想であり、12節は1章8節とインクルージオになっていると思います。その他にも、12章には1章とのインクルージオがさまざまな形であります。しかし13~14節は、「1章とのインクルージオの中には組み込まれていない」という意味で、修辞的にはコヘレトの言葉の枠組みの外に位置しているといえましょう。
しかしそれは、思想的に外部であることを意味するのではありません。むしろここには、これまでに断片的に語られてきたコヘレトの言葉の主要テーマである「神を畏れ、その戒めを守れ」「神は全ての業を裁かれる」が、読後の読者に対して静かに示されていると思います。
この1年を通してお伝えしてきたように、コヘレトの言葉は、「儚(はかな)さ(空)」「不条理」「ペガ(偶発的な事故)」「老いと死」という「被造世界の現実」を、コヘレトが自身の観察の結果として書いたものです。この書を読んだ読者は、必ずしもハッピーな気持ちにはなれないかもしれません。被造世界の現実に直面して、「う~ん」と思う人も多いと思います。
しかし、コヘレトの言葉はここで静かに終わるのです。前回、フョードル・ドストエフスキーの小説『白痴』について、「悲劇的なナスターシヤの死と、ムイシキン公爵の精神崩壊という、いわば『空』で終わる小説でありながら、150年以上世界中の人々に愛されてきました。それは、読み終わった後に、読者を次の思索へと向かわせるものがあるからだと思います」とお伝えしました。
コヘレトの言葉も『白痴』と同じように、読者を次に向かわせます。その方向は、新約聖書であり、イエスが言われた「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ1章15節)という言葉であると思います。最後の「神は全ての業を裁かれる」という言葉が、十字架上で全ての裁きを引き受けてくださったイエス・キリストの業へとつながるからです。
その意味で、コヘレトの言葉の最後は「結論」ではなく、「続く」でしょう。13節は「聞き取ったすべての言葉の結論」と訳されていますが、「聞き取ったすべての言葉の最後」と訳した方がよいように思えます。14節は中途半端な終わり方のように思えますが、私はその方がよいと思います。なぜなら、この書は「続く」からです。
コラムの最後に
1年間お読みいただき、ありがとうございました。途中までは、時代背景を大切にし、「ヘレニズム期の書」ということで書いてきましたが、不条理について深入りしてきた8章からは、アルベール・カミュの『ペスト』『シーシュポスの神話』と、内容がペガに移行した9章11節からは、ロシア文学の『イーゴリ遠征物語』『スペードの女王』『イワン・イリイチの死』『白痴』と併せ読んできました。
そうすることで、コヘレトの言葉が語る内容を具体的に示そうとしましたが、かえって難しくなってしまったかもしれません。しかし、これらの文学作品が、コヘレトの言葉の内容に非常によく則していることは確かですので、ぜひ聖書と併せてお読みすることをお勧めしたいと思います。
繰り返しになりますが、1年間ありがとうございました。(終わり)
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