棚橋峯子さん作詞の賛美歌詩
今回は、12章1~8節を読みます。この箇所を読むと頭に浮かぶのが、『讃美歌21』の548番と549番です。この2曲は、メロディーは違いますが、歌詞は同じです。その1~3節を記します。
- わたしたちを造られた神よ
若い季節(とき)に知った
あなたのみ名は すばらしい - わたしたちを担われるイェスよ
巡る季節に知った
あなたの愛は かわらない - わたしたちを生かす聖霊よ
老いの季節に知った
主のみちびきは ゆるぎない
作詞者の棚橋峯子さんは、もう亡くなられましたが、私が牧会している教会と同じ日本基督教団中部教区に属する金城教会の会員でした。恐らく正式に神学を学ばれたことはなかったと思いますが、この詩を読むたびに、「聖書の言葉を何と深く読んでおられたのだろうか」と思わされます。1節の「若い季節」、2節の「巡る季節」、3節の「老いの季節」は、いずれもコヘレトの言葉12章1~5節に示されていることです。
「若い季節」は、12章1節の「若き日に、あなたの造り主を心に刻め」を意識して作られたものでしょう。私自身も、幼い頃にこの言葉に親しんでいました。19歳という比較的若い日に受洗に導かれた背景には、この聖書の言葉による影響が少なからずあったと思います。
「巡る季節」には、12章5節後半の「哀悼者たちは通りを巡る」に集約される、コヘレトの言葉全体の一つのモチーフが示されていると思います。1章4節の「一代が過ぎ、また一代が興る。地はとこしえにかわらない」に表されている、「一つの人生が終わっても、それを引き継ぐ人が巡り続ける」というコヘレトの世界観が、この「巡る季節」という言葉に示されていると思えるのです。
「老いの季節」は、12章3~5節前半の、老いについてのコヘレトの認識を詠んでいるのだと思います。老いは避けることのできないものとしてやって来るが、そこにも神の導きがあることを覚える大切さが、この歌詞の3節からは伝わってきます。
それでは、聖書を読んでいきたいと思います。
「呼びかけ」としての12章
1 若き日に、あなたの造り主を心に刻め。災いの日々がやって来て、「私には喜びがない」と言うよわいに、近づかないうちに。2 太陽と光、月と星が闇にならないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。
コヘレトの言葉の12章は、1~3章に対応していると思います。私がこれまでこの書を読んできて考えていることは、4~11章がこの書の本論であり、1~3章と12章がそれぞれ、序論と結びとして本論を挟み込むような構造になっているということです。図式化すると、以下のようになります。
- 1~3章 【問い】人生とは何か
- 4~11章 【観察】現実はどうなっているのか
- 12章 【呼びかけ】それでもどう生きるのか
1章3節で「太陽の下、なされるあらゆる労苦は、人に何の益をもたらすのか」という哲学的ともいえる問いで始まったこの書が、12章1節で「若き日に、あなたの造り主を心に刻め」という信仰的な切り込みで、最後の呼びかけを行っているのではないかと思えるのです。
12章はこの書の最後ですが、結論ではありません。読者に対する呼びかけです。不条理やペガ(偶発的な事故)という闇を観察した後で、コヘレトは「若き日に、あなたの造り主を心に刻め」と、光の方向を指し示します。コヘレトは人生の全ての謎を解いたわけではありません。しかし、闇の中でどこを見て生きるのか、その方向だけは静かに示しているのです。
1~7節は、老いと死という避けることのできないことを語りつつも、神とのつながりを示す言葉に囲い込まれています。1節では「神を覚えよ」と呼びかけられ、7節では「息はこれを与えた神に帰る」とまとめられているのです。それは、前述しましたように、1章3節の「太陽の下、なされるあらゆる労苦は、人に何の益をもたらすのか」という問いに対する一つの応答といえるでしょう。
老いと死
3 その日には、家を守る男たちは震え、力ある男たちは身をかがめる。粉挽(ひ)く女は数が減って作業をやめ、窓辺で眺める女たちは暗くなる。4 粉を挽く音が小さくなり、通りの門は閉ざされる。鳥のさえずりで人は起き上がり、娘たちの歌声は小さくなる。5 人々は高い場所を恐れ、道でおののく。アーモンドは花を咲かせ、ばったは足を引きずり、ケッパーの実はしぼむ。人は永遠の家に行き、哀悼者たちは通りを巡る。6 やがて銀の糸は断たれ、金の鉢は砕かれる。泉で水がめは割られ、井戸で滑車は砕け散る。7 塵(ちり)は元の大地に帰り、息はこれを与えた神に帰る。
老いと死は、神から切り離される出来事ではありません。若き日に造り主を覚えよという呼びかけで始まり、息は神に帰るという言葉で終わる詩的な書き方がなされているこの箇所は、人間の人生全体が、神との関係の中に置かれていることを示しているといえるでしょう。
3節~5節前半は、人間の体の老いを表現しているといわれます。
「その日には、家を守る男たちは震え」は、手や腕といった体を守る部分が、衰え震えるさまだとされます。「力ある男たちは身をかがめる」は、足腰が曲がることでしょう。これらによって、体を支える部分が老いるにつれ弱くなっていくことが説明されています。
次に、感覚器官の衰えが描かれます。「粉挽く女は数が減って作業をやめ」は、食べ物を挽く器官、つまり歯が減っていくということです。「窓辺で眺める女たちは暗くなる」は、視力が衰えるということです。「粉を挽く音が小さくなり、通りの門は閉ざされる」は、耳が遠くなり、聞こえづらくなることです。「鳥のさえずりで人は起き上がり」は、年を取って眠りが浅くなることです。「娘たちの歌声は小さくなる」は、歌や音楽を楽しむ力の衰えをいっています。
5節では、外見の変化と不安が示されます。「人々は高い場所を恐れ、道でおののく」は、体が弱くなり、転倒や危険を恐れる状態です。「アーモンドは花を咲かせ」は、アーモンドの白い花を通して、白髪を表現するものです。「ばったは足を引きずり」は、小さなことでも体にこたえるということです。「ケッパーの実はしぼむ」ですが、ケッパーの実には性的欲求や感情を高める作用があるので、それがしぼむということは、活力が衰退するということです。
人間にとって、これらの「老い」は不条理であるかもしれません。しかし、このコラムでこれまでお伝えしてきたように、不条理に対しては、その時々に神から与えられているプレゼントを楽しむことが、「善いこと(トーブ/ טוֹב)」なのです。ですから、老いの時にこそ、神からのプレゼントを大切にできるのです。その意味で、冒頭に示した棚橋さんの詩の「老いの季節(とき)に知った 主のみちびきは ゆるぎない」は、とてもうなずくことができるのです。
一方、死は、老いの結果として到来することもありますが、そうでない場合もあります。時に幼年期であり、青年期かもしれません。それは大きな悲しみの出来事です。コヘレトは、それを激しい言葉ではなく、次のように表現しています。
- 糸が断たれる
- 鉢が砕かれる
- 水がめが割られる
- 井戸の滑車が砕け散る
人間の存在が、こわれていくものであるとして、このような象徴で死を語っています。死を特別に劇的なものとして描くのではなく、人間の存在に必ず訪れる現実として、静かに語っているのです。
さらに、「人は永遠の家に行き、哀悼者たちは通りを巡る」(5節c)とあります。「巡る(サーバブ / סָבַב)は、1章6節の「南へ向かい、北を巡り、巡り巡って風は吹く。風は巡り続けて、また帰りゆく」の「巡る」と同じ語であり、コヘレトが1章3~11節で語っている、世界の循環性に通じています。一人の命が終わっても、この世界は循環し続けていくということでしょう。
空と裁き
8 空の空、とコヘレトは言う。一切は空である。
コヘレトは1章2節と同様に、「一切は空である」と言います。本来のコヘレトの言葉は、ここで終わりであるともいわれます。不条理とペガ、老いと死を語ってきた彼の言葉は、空で閉じられるのかもしれません。しかし、本書はそこで終わりません。全ての業を裁かれる神の「裁きの座」へと導くのです(14節)。人間の世界は空に満ちています。しかし、その全ては、最後に神の裁きの前に置かれるとされているのです。
コヘレトの言う裁きとは、その時代(紀元前3世紀)より前に書かれた旧約聖書でしばしば語られている、罰として理解される裁きとは少し性格が異なっています。コヘレトは、その裁きがいつ来るのかについては語っていません。ただ、全ての業が神の前に置かれることだけを語っています。
私は、この裁きは、イエスが「神の国は近づいた」(マルコ福音書1章15節)と語った「神の国の到来」において実現しているように思います。コヘレトは預言者ではありません。しかし、全ての業が、神の裁きの前に置かれるという彼の視点は、イエスが告げた神の国において、よりはっきりと姿を現しているように思えます。
その観点から読むと、コヘレトが語る空の世界は、イエスの山上の説教と響き合っているように思われます。イエスは、「だから、あなたがたは、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い煩ってはならない」とし、さらに「まず(近づいている)神の国と神の義とを求めなさい」と言われました(マタイ福音書6章31~33節)。
コヘレトは、人間の世界を空と呼びました。「太陽の下でなされるすべての労苦と心労が、その人にとって何になるというのか。彼の一生は痛み、その務めは悩みである。夜も心は休まることがない」(2章22〜23節)とも言いました。しかし、イエスはその同じ不確かな世界の中で、「思い煩うな。まず、神の国を求めよ」と語られたのです。コヘレトの空は、そこにつながっていると思うのです。
ドストエフスキーの『白痴』と併せ読む(6)
第18回から、フョードル・ドストエフスキーの長編小説『白痴』と併せ読んできました。これを行うことによって、コヘレトの言葉9章11節以下で伝えられている、避けられない災難・ペガを、小説の登場人物からさまざまに知ることができました。
『白痴』には、これまでお伝えしてきたことの他に、イッポリートという青年の話があります。彼は、死の病である結核を発病し、夜会の席で演説を行った後に自殺を図ります。彼の話には、ドストエフスキー自身の体験や思索が込められていて、特に演説の内容はキリスト教的に大変興味深く、それらもお伝えしたいのですが、ここでは割愛します。
これらのペガに対してなすすべもなく、ただそれを受け止めるだけなのが、主人公のムイシキン公爵です。彼は何もできなかったのです。ドストエフスキーは、ムイシキン公爵をキリストの模倣として描こうとしたとされていますが、その姿は、十字架に向かってただそれを受け止めておられたイエスを、どこかほうふつとさせます。
しかし、この小説における象徴的なペガは、ヒロインとして描かれているナスターシヤの死です。その死の伏線として、ナスターシヤの手紙があります。これは、ムイシキン公爵に好意を寄せているもう一人の女性アグラーヤに宛てて、ナスターシヤが書いたものですが、その内容はムイシキン公爵によって読み上げられます。
そこには、ナスターシヤの内面が崩れていく様子がつづられています。彼女は、養父トーツキーに凌辱(りょうじょく)された過去を自分自身で赦(ゆる)すことができず、自分は幸福になってはいけないと考えるのです。また、同居している男性ロゴージンが、自分を殺すかもしれないと考えながらも、彼と共に生きるしかないと、彼との同居を受け入れるのです。そして結局、アグラーヤにムイシキン公爵との結婚を勧めるのです。
こうして彼女は、人生を自ら少しずつこわしていっているのです。ナスターシヤの手紙は、一人の人間の内面が静かにこわれていく過程を語っているといえるでしょう。その姿は、コヘレトが人の死を語るときに用いた、あの「こわれていく器具」の比喩を思い起こさせます。
一方、それに対して、手紙を読んでいるムイシキン公爵は、何もなし得ません。ただ静かにそれを受け止めるだけです。その後、ムイシキン公爵にはアグラーヤとの結婚話が起こります。しかし、前回お伝えしましたが、この話は花瓶事件の後、アグラーヤの離反で破談になります。そこで、ナスターシヤが再び登場し、彼女とアグラーヤの話し合いがもたれるのですが、アグラーヤは走り去り、ナスターシヤが気絶し、ムイシキン公爵がそのナスターシヤを抱きかかえるという展開になります。
こうして、ナスターシヤとムイシキン公爵が結婚することになります。しかし、結婚式の当日に、突如ロゴージンが姿を現すと、ナスターシヤは恐怖に襲われ、自らムイシキン公爵のもとを離れてロゴージンのもとへ走り去ってしまいます。ムイシキン公爵はそれでも彼女を責めることなく、その後、ロゴージンの家を訪ねます。そこで彼は、変わり果てた姿のナスターシヤに会うのです。彼女は既にロゴージンによって殺害されていました。
ムイシキン公爵は、ナスターシヤの亡骸の前で、ロゴージンと共に一夜を過ごします。結婚の相対者を殺した相手を責めることもなく、ただその場に座り続けるのです。やがて、ロゴージンは裁判を受けて刑務所に送られ、ムイシキン公爵は精神を患って再びスイスの療養所に戻ることになります。こうしてこの小説は終わります。
幼少期に、養父に凌辱されたナスターシヤは、不条理とペガに包まれ続けた人生を送り、死にさえも一筋縄には進めなかったのですが、その最期は静かに「こわれる」のです。それは、読者を空しい読後感で包み込みますが、なぜか「では、どうしたらよいのだろうか」という方向に向かわせるのです。そこが、「一切は空である」で終わりながらも、「では、どうしたらよいのだろうか」と思わせるコヘレトの言葉と共通しているように思えるのです。
『白痴』は、悲劇的なナスターシヤの死と、ムイシキン公爵の精神崩壊という、いわば「空」で終わる小説でありながら、150年以上世界中の人々に愛されてきました。それは、読み終わった後に、読者を次の思索へと向かわせるものがあるからだと思います。
一方、コヘレトの言葉は、不条理とペガ、老いと死を伝え、「一切は空である」として、12章8節で一度閉じられながらも、「裁きの座」に私たちを向かわせ、その向こうで「イエスが告げた神の国の到来」へとつなげているように思えます。(続く)
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