福音には、人をありのままで受け入れると同時に、人をそのままの状態にとどまらせないという不思議な力があります。
イエス様は、全ての人を招かれました。しかし、全ての人が応答したわけではありませんでした。だから聖書は「狭い門から入りなさい」と語ります。
狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。(マタイ7:13、14)
まるで狭い門を通るかのように、自分の罪を自覚し、悔い改めて罪の赦(ゆる)しを得た人は救われました。反対に、滅びに至る広い門を通る人は、自分の状態に無頓着です。罪を自覚しないばかりか、自分の義を押し通します。その人は、救われないどころか、イエス様に敵対するようになり、最後にはイエス様を十字架につけてしまいました。
福音が語られているならば、その教会にはどんな人でも来ることができます。しかし、福音ではなく「こうあるべき!」という宗教が語られているとしたら、その宗教に適応する人しか来ることができなくなります。
福音の入り口は広く、その先にある門が狭いのですが、反対に、律法や宗教の入り口は狭く、その先にある門が広いのです。福音は「誰でも渇いているなら、重荷を負っているなら、わたしのもとに来なさい」と語ります。
本来教会には、どんな人でも来ることができますし、時には「あっ!?」と驚くような、とんでもない人が来ます。もしそのような人が教会に来るとしたら、福音がそこで語られている証拠かもしれません。
しかし、その先があります。狭い門であるイエス様に応答できるかどうか。それが分水嶺となります。応答できない人は、応答できない理由を探して「こうだから……」と自己を正当化します。
その「こうだから……」は、実にさまざまです。自分を変えたくないので、変えなくて済む理由を探します。「こんな教えはおかしい、納得できないから信じられない」「牧師が悪いから」「ああいう信徒がいるから」などなど。
自分を変えない理由探しを続けていると、やがて拒否につながり、最後は、イエス様に敵対したユダヤの宗教家たちと同じ道を歩むことになります。
しかし、自分の目の梁(はり)に気付いた人はその解決のために、イエス様に悔い改め、方向転換をし、救いを得て神の子となり、永遠のいのちを得ます。そして、持っている人は、さらに持つようになります。
なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、「あなたの目のちりを取らせてください」などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。(マタイ7:3〜5)
持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。(マタイ13:12)
福音は、全ての人を招いていますが、全ての人が応答するわけではありません。しかしイエス様は、全ての国民を弟子としなさいと語られました。それは、決して人間業ではありません。祈り、最善を尽くすしかありません。
でもこれだけが、日本を変える最後のとりでです。福音の力は、日本を変えることができると信じます。
イエス様に悔い改めましょう。そして、人々を弟子とするために立ち上がっていきましょう。福音には、驚くべき力があるのです。
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