わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。(ルカ4:18、19)
イエスは30歳の時にバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになりました。その直後に御霊が鳩のようにくだってきてご自身の上にとどまられ、そこから神の国の福音を人々に伝え始めました。
聖書では、イエスが宣教をされた期間は約3年半といわれています。神の国の福音を宣べ伝えられた後、十字架で死なれ、それから3日目によみがえられて福音が完成しました。主ご自身もこのことを語っておられます。
さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。(マタイ20:18、19)
人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖(あがな)いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。(同28節)
目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。(マタイ11:5)
イエスは、神の国が実在することを3年半の間に群衆に伝え続けました。目の見えない者が見えるようになり、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返るという奇跡を伴いながら、貧しい人々に福音を伝えられました。
病いの癒やしだけでなく、すべての悪霊が追い出されたとも記されています。なぜなら神の国にはそうしたものが一切ないからです。主イエスは神の国を地上にもたらす教えを宣べ伝えながら、実際に神の国をこの地上に現されました。
朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。群衆は、イエスを捜し回って、みもとに来ると、イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」そしてユダヤの諸会堂で、福音を告げ知らせておられた。(ルカ4:42〜44)
イエスはユダヤの至る所を巡って、町や村で神の国について教えられました。そして、その働きを任せるために弟子たちを任命されたのです。
「弟子」というと、イメージ的には堅い、特別に召された人たちと感じるかもしれません。しかし実際は「神の家族」という意味合いです。人それぞれ働きに大小あれど、すべての人がイエス・キリストの弟子であり、父のみこころを行う家族になることを、主は求めておられるのです。
それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。天におられるわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。(マタイ12:49、50)
事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。(ヨハネ6:40)
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:18〜20)
まず主が求めておられるのは、あらゆる国の人々を弟子とすることです。天においても地においても、一切の権威が与えられている方のご命令です。私たちは、そのご命令にどのように応答したらよいのでしょうか。
ここで「はい」と言う者は幸いです。私たちも幸いな者の道を選びたいものです。どの道を選ぶかは、私たち一人一人に委ねられているからです。
弟子として洗礼を授けること。そして、主イエスが教えてくださった事柄を守り行うように教えること。これが弟子たちに託されている使命です。この使命に歩んでいるかどうかで、イエスの弟子かどうかを判別することができます。
そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。」(ヨハネ8:31)
神の教えをよく学んで、自分自身がそれを守り行い、体験をもって人々にお伝えし、お仕えしていく。これがイエス・キリストの弟子、つまり家族の務めになります。ですから、イエスの家族となったすべての人がその務めをするように召されているのです。
この地上において、私たちにはおのおのに与えられた人間関係があります。主は私たちの人間関係の中で実を結ばれます。牧師、伝道師、使徒と呼ばれる人たちだけが福音を宣べ伝えると曲解されているケースもあるようですが、もしそれが真実なら、牧師や伝道師が教会に来ているすべての聖徒の家を巡回し、そのご家族に伝道する責任があるでしょう。それはとても無理な話ですし、主の教えではありません。
主はペテロやアンデレを召命されたとき、「あなたを人間をとる漁師にしてあげよう」と言われました。では、このように召命されなかった人の家族には救いがないということでしょうか。それが違うことはお分かりですよね。主はすべての人をお救いになりたいと聖書のさまざまな箇所で語っておられます。
神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。(1テモテ2:4)
主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(2ペテロ3:9)
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(1ペテロ2:9)
すべての人が神の家族となって、主イエスの教え、すなわち天の父の教えを自らも行い伝えながら、福音を語り、信じた人に洗礼を授けてほしいと主は命じておられるのです。「アーメン」と言って、主に栄光をお返ししましょう。
そこに至って、次の権威が与えられます。
イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになった。それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。(ルカ9:1、2)
遣わされた弟子たちは、その権威を行使していきます。
十二人は出かけて行って、村から村へと回りながら、至る所で福音を宣べ伝え、病気を直した。(同6節)
福音を伝えていくとき、それに伴い病いを癒やす奇跡が起こり、神のことばがますます広がっていきます。そして、弟子たちは喜び勇んで主の元に帰ります。
さて、使徒たちは帰って来て、自分たちのして来たことを報告した。それからイエスは彼らを連れてベツサイダという町へひそかに退かれた。(同10節)
主が遣わしてくださったなら、必ず結果が出ます。そして弟子たちはそのことを主にご報告して、栄光をお返しするのです。
地上の仕事においても、「報告・連絡・相談」は大切です。御国の仕事もしかりです。天の御国の働きは、主から力と権威を着せられて、神の福音と十字架の愛を宣べ伝えるための仕事が用意されています。
私たちは地上において、苦しんでいる人、滅びに向かって歩いている人を主の御霊と共に救い出すという素晴らしい仕事が与えられているのです。そしてこれこそが、私たちすべてのキリストの家族に与えられた務めであり、地上に遣わされている最も大切な理由の一つです。
その後、主は、別に七十人を定め、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。そして、彼らに言われた。「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。(ルカ10:1、2)
先の12人とは別に、さらに70人を主が2人ずつお遣わしになっています。そして主は、さらに多くの人たちを神の家族とされました。
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。(1コリント15:6)
復活されたキリストの目撃者が500人以上いると聖書に記録されています。最初にケパ(ペテロ)に現れ、それから12弟子に現れ、その後に500人以上の兄弟たちに現れ、多くの人がキリストの家族になっています。
ところで、先ほどの70人の弟子たちが結果報告のために帰って来たとき、主イエスから驚くべきことが語られました。その箇所を見てみましょう。
さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。」(ルカ10:17〜19)
主イエスは、私たち神の家族に、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けられたのです。そして「私たちに害を加えるものは何一つない」という素晴らしい教えをしてくださいました。
悪霊は主イエスの御名に服従したのです。そして、それは今も変わっていません。これは特別な召しや特別な賜物を持っている人たちだけのものではありません。主ご自身は次のように言っておられます。
ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」(同21節)
別の箇所でも「天の御国を奪い取るような信仰者でなければ神の国を体験することができない」と主は語られています。
バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。(マタイ11:12)
さらに、次のようにもおっしゃっています。
それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。(マルコ16:15〜20)
「信じる人々には次のようなしるしが伴う」とイエスは語られました。つまり、主から与えられる福音のための力と権威を「信じる」か「信じない」か。そのことが問われているのです。
一方で賜物については、主に熱心に求めるようにと言われています。しかし、信じる人への「しるし」は、文字どおり信じる人に与えられるのです。ぜひ惑わされずに、安心して、御霊とともに福音を宣べ伝えていきましょう。みことばなる主が働いてくださいます。
ただし、主が次のように語られた通り、聖霊のバプテスマを受けることは必須の条件となります。
こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦(ゆる)しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:46〜49)
天の父なる神が約束してくださった「いと高き所から力を着せられる」とは、聖霊のバプテスマのことを指しています。
一般的に、信じた人はまず水の洗礼を受け、その後に聖霊のバプテスマを受けます。これについては、主イエスが3日目によみがえった後にも、弟子たちに同じように語られています。
彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。・・・しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:4、5、8)
私たちは復活のイエスの証人となって、聖霊とともに3日目のよみがえりを宣べ伝えて、福音により新生をお届けするのです。
キリストが私たちをお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためだけではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、人のことばの知恵によってはならないのです。
十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。・・・事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。(1コリント1:18、21)
兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと(1コリント15:1〜4)
さて、ここで思い出してみましょう。私たちが神の子となったのは、イエス・キリストの十字架の死と3日目のよみがえりを信じたからではないでしょうか。
ところが、多くの方がなぜ救われたのかをまるで忘れているかのようです。もし、何よりも大切なこのグッドニュースを伝えるのが恥ずかしいと感じているとしたら、それは神からのものではなく悪魔のささやきです。これは悪魔が福音を邪魔する策略なのです。
その策略が分かったときは、信仰に立ち、主イエスの御名によって間違った思いを十字架に釘づけましょう。私たちは、主イエスの十字架を絶対に恥としてはなりません。
十字架を決して恥とはしない。そのように決心しなければ、悪魔の策略によって宣教の力はあなたから奪われ続けてしまうでしょう。多くの人が良い行いでキリストを現そうとしています。良い行いはもちろん大切です。しかし、それだけでは救いには至らないのです。
救いはイエス・キリストの十字架以外にはないのですから。そのことをもって、神に栄光を帰することを決心すべきです。それは、次のように書いてある通りです。
さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。(1コリント2:1〜5)
アーメン。救われることも、救われてから先のことも、すべてが神から出て、神にかかっています。それを私たちが横取りすることはできません。救いはイエス・キリストと、御子をご用意してくださった御父なる神。そして、そのことを教えてくださっている御霊なる主。この三位一体の神以外にはないのです。ですから、あのパウロですら、「私は、弱く、恐れおののいていました」と書いてある通りです。
今、福音を前にして、弱く恐れおののいているあなたこそ、福音を語るのにふさわしい方です。そのことを決心すれば、聖霊の力が与えられます。自分の力を足さずに信仰に立って行うこと。これ以外に道はありません。次のように書いてある通りです。
「私は信じた。それゆえに語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。(2コリント4:13)
私たちは、信じて、語るのです。復活の主がよみがえったとき、私たちに次のように語ってくださいました。
その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」(ヨハネ20:19〜22)
私たちはここで「アーメン」と言って主からの平安を受け取って、聖霊を受け、神によって、神の国の福音宣教のために遣わされるのです。栄光の神、復活の主イエス・キリストが私たちと共におられます。
見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:20)
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【書籍紹介】
奥田英男著『祝福を受ける人のBibleノート』 2016年11月1日初版、ミリオン・スマイル、定価1800円(税別)
神に出会ったのになぜかうまくいかない・・・。そう思われているクリスチャンの方は意外と多いのではないでしょうか。
イエス・キリストを主と受け入れた後、私たちはどのように信仰生活を歩めばよいのでしょうか。
本書は聖書のことばを「分かりやすく、より実践的に、生活に適用できるように」をテーマに、主イエス様と共にこの地上で生活するための具体的かつ実践的な指南書です。
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よろこび研究会とは
真理はあなたを自由にします。(ヨハネ8:32)
みことばカレンダーに基づき決められた聖書箇所を読み、
主から語られたことや体験を参加者一人ひとりが分かち合う。
メッセンジャーは聖霊の導きに従い、
ライブで主からのメッセージを取り次ぐ。
みことばの泉にひたり、
聖霊のよろこびに満たされ解放を受ける、
「新しい皮袋な人たち」のための
たましいを救いに至らせる礼拝とバイブルスタディ。
「よろこび研究会」では、下記をテーマとして、真理のことばで“よろこび”をお届けしています。
1. 聖書のみことばを分かりやすく
2. 日常生活に適用できるように
3. より実践できるように
主イエスに出逢ったにもかかわらず、その後“よろこび”がない方。
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「私のこと?」と思った方は、ぜひご参加ください。
真理はあなたを自由にし、あふれる“よろこび”で満たしてくれます。
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