主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。・・・父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。(詩篇103:8〜14)
クリスチャンの数は、日本では総人口の1%だとずっといわれ続けてきました。ところが、厳密にカウントすると1%に満たないという説もあります。0・7%か0・6%だという人もいます。ある意味で、日本のキリスト教の世界は小さな世界ということになります。
小さなキリスト教界が、カトリックとプロテスタントに二分されています。さらにそのプロテスタント教会が20か30以上の教派とか教団に分かれているといわれています。その小さな教派は小さな群れの寄せ集めになっている場合もあります。都心部を離れて地方に行くと、礼拝出席が20人か30人はましな方で、10人前後で一つの教会を維持しているというのも珍しくありません。地方で50人か60人の教会といえば、中堅どころです。100人を超える礼拝出席があれば超優良教会ということになります。
私が牧会していた教会は、小さな教派に属している小さな群れだったのですが、全ての群れが経済的に独立を強いられていました。教会の維持がやっとという状態ですから、牧師を支える余裕などなくて、牧師はアルバイトでやっと食いつないでいるありさまでした。
私は自分の過去を振り返るとき、自分の家族に対して大変申し訳ない気持ちになります。子どもたちに服や靴を買ってあげられなくて、恥ずかしい思いをさせたのではないか、十分な食べ物がなくて、ひもじい思いをさせたのではないかと考えると、胸が締め付けられるような気がします。
若い頃の私にとって、日曜日は絶対的な主の日でした。たとえ熱でうなされていても、講壇は死守しなければならないという気持ちでした。子どもの運動会や学校行事があっても教会が優先でしたので、家内が行くことも許さず、子どもが寂しい思いをし、泣いていたということもありました。しかし聖書を開くと、主イエスは安息日に、空腹の弟子が麦の穂を摘んで食べることを許しておられます。また、パリサイ人の非難に負けず、病気の癒やしも行われました(ルカ6:1〜11参照)。私は聖書の話をする牧師でありながら、キリストの精神からかけ離れていました。
やがてチャペル結婚式ブームが訪れると、生活は好転していくようになりますが、結婚式にばかり力を入れている牧師として、教会の内外で陰口と非難の対象になり、教会を離れなければなりませんでした。
私は経済的に苦しかった牧師時代、また老後のことを考えると、教会にも生活を支える共済制度や牧師退職金積立制度みたいなものが必要なのではないかと思い、事あるごとにいろいろな人に相談していました。ある大きな教団の幹部の先生が声をかけてくださいました。金額は大きくはないが、自分たちの教団には牧師年金というのがある、少しでも老後の足しになると言うのです。自分たちの教団に移籍しないかというありがたい申し出でした。しかし、途中で移籍したら、今まで積立ててきた方々に申し訳ないし、経済的理由だけで教派を移るのにも抵抗があり、お断りしました。
なにか手立てがないものかと思って、行政の窓口、国の機関、保険の専門家などに相談しました。零細企業の経営者を救済する国の制度があるということが分かりました。例えば、ある経営者が自分のために退職積み立てをしていたとします。退職するときに500万円になっていたら1千万円支給される、1千万だったら2千万支給されるというのです。これはいい制度だと思って、私も自営業主として登録し、申し込みました。
申し込みが受理され、よかったと安堵しているとき、霞ヶ関の官僚を名乗る人物から電話がかかってきました。「あなたは過去に宗教法人として税制上特別扱いを受けてきたのに、なぜ国の別な優遇措置に預かろうとするのか。あなたの態度は許せないから、文科省の友人とも協力して、あなたが過去に関わった宗教法人や団体を調査する」というのです。もしこのまま進めば、教会に迷惑をかけてしまうことになります。そうかといって申し込みを撤回すれば、受理してくれた機関の担当者を困らせてしまうかもしれませんでした。
ピンチに立たされてしまいましたが、その時に示された解決策が「法人成り」という方法でした。株式会社を設立しますと、法人格が生まれ、私の自営業主という登録は消滅します。そして、自動的に申し込みは抹消されます。神様が知恵を与えてくださり、難局を乗り越えることができました。
では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(ローマ8:31)
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