「もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる」(2テモテ2:12)
上記の聖句で「耐え忍んでいるなら」というのは、イエス様のために味わう苦難のことです。罪を犯した故に非難されたり、苦しみに遭ったりというのは、身から出たさびによるものです。その苦しみによって罪の罰が帳消しになったなどと考えるべきではありません。それは、当然受けるべきものだからです。
それでは、どういうものがイエス様のための苦難なのでしょうか。聖書が教えることを純粋に実行した結果、受ける苦しみです。それでも「私にイエス様のような愛や謙遜さや知恵があったら、このような苦しみを受けなかったかもしれない」という負い目を感じながらも、受ける苦しみのことです。
私が受けてきた苦しみの中には、私の配慮が足りなかったり、私のミスによって受けたものがあります。その出来事を通して悔い改め、赦(ゆる)しを頂いた後には、必ず生き方が変わり、マイナスがプラスに変わることを体験しました。
しかし何度か、イエス様のために味わう苦しみを受けたことがあります。未信者の人や他の宗教の人から受けたものもありますが、クリスチャンと呼ばれる人から受けた苦しみもあります。「えっ?あり得ない!」と思うのですが、それが現実なのです。
その時、不思議な平安と喜びを感じました。イエス様が受けた苦しみと、質的に同じ苦しみを味わえたからです。
聖書は語ります。「しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、この名のゆえに神をあがめなさい」(1ペテロ4:16)
その苦しみが、イエス様の故にキリスト者として受けているものかどうかを吟味し、永遠の報いを期待しながら歩んでいきましょう。
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