日本でも『「放蕩(ほうとう)」する神』や『イエスに出会うということ』などの訳書が出版されているティモシー・ケラー牧師は、「赦(ゆる)し」というキリスト教の中心的メッセージが近年、危機に直面していると言います。そうした中、11月初めに、赦しをテーマにした新刊を出版。ケラー牧師に話を聞いた米キリスト教メディア「クリスチャンポスト」のインタビュー(英語)の日本語訳を、2回にわたってお届けします。(前編はこちら)
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「真の赦し」を構成する4つの行動
ティモシー・ケラー牧師によると、真の赦しには、それを構成する4つの行動がある。それは、1)罪を無視せずにはっきりさせること、2)加害者を自分と同じ罪人だと認識すること、3)加害者の(罪の)負債を吸収し(罪の)責務から解放すること、4)和解を目指すこと――だという。
ケラー牧師は、和解が常に赦しの目標であることを強調するが、そのような結果が得られない場合、あるいはそれが安全でない場合、どのように真に赦すべきかについても論じている。その例として、モーセが神に背いたとき、神はモーセを赦したが、他方でモーセが約束の地に足を踏み入れることは認めなかったことを挙げている。また、ダビデがバテシバと姦淫(かんいん)したとき、ダビデが厳しい結果に直面したことも挙げている。
「誰かを赦すということは、その人を信頼しなければならないということではありません。信頼は、徐々に戻ってくるものだと思います」
「加害者はまだ変わっていないかもしれないし、すぐに変わるものではないのかもしれません。(無理に加害者を信頼することで)他人が自らに対し罪を犯しやすくするようにすることは、決して愛ではありません」
罪を犯した牧師、教会指導者をどう扱うべきか
牧師や教会指導者が公に失敗したときにも、同じ原則が当てはまるとケラー牧師は語る。
「罪に陥ったような牧師は、確かに務めから完全に身を引くべきです。それは数週間や数カ月間(のような短い期間)であってはならず、またその後、何事もなかったかのように戻ってくるべきでもありません。私は実際にそのようなことが行われるのを見てきました。私は、彼らが起こったことを認め、『私は本当に間違ったこと、神との契約への違反、真の背信行為を行った上で人々を呼び集めて信頼を求めるのですから、何事もなかったかのように元に戻ることはできません』と言う必要があると思います」
「彼らは恐らく、主たる説教者であるべきではないでしょう。特に、ある種の性的不品行や金銭的不品行があった場合には。基本的に赦しとは、以前いたところに完全に戻ることを意味するものではありません。実際、恐らく一般的にもそうあるべきではないでしょう」
「キリスト教の赦し」と「セラピー的赦し」の違い
ケラー牧師は、ソーシャルメディアの台頭や、今日の「セラピー的時代」が、神の栄光と共通の善のためという、クリスチャンが赦すように召されている真の理由の代わりに、いかに自己利益に焦点を当てるようにさせているかなど、赦しを妨げる一般的な障害についても考察している。
「もし赦しの主な目的が『どうしたら幸せになれるか』(という動機に基づくもの)であるならば、実際になすべき赦しを全てしていることにはなりません。赦しとは本来、あなたに内なる平安を与えるだけでなく、あなたを世界における和解の代理人にするものだと思います」
キリスト教の赦しが、キリストによる赦しに対する理解に基づくのに対し、セラピー的な赦しは「過去から心を離すことが全てです」とケラー牧師は指摘する。「彼らは誰とも和解しようとしていませんし、神に頼ってもいません。彼らは、自分自身の気分がよくなることだけを考えているのです」
赦しがますます不人気になっていく時代にあって、ケラー牧師はクリスチャンに、定期的に心の棚卸しをし、罪を悔い改めるように促している。良い悔い改めをする人は、恨みを抱く代わりに、赦しと愛を広げることができるのだという。
「基本的に、他人を赦すために必要な準備は、あなたが神の元に来て赦しを得、涙を流し、泣き叫び、神に感謝し、そしてイエスがなさってくださったこと(十字架上の死)によってのみ、神はあなたに赦しというこの驚くべき恵みを与えられるのだ、ということを理解することです。そうすれば、たとえあなたが人を赦さなければならない立場になったとしても、それは難しいことではなくなるでしょうし、少なくとも、それほど難しいことではなくなるでしょう」