キリスト教の宣教師や信徒ら55人が1622(元和〔げんな〕8)年9月10日に、長崎・西坂の丘で処刑された「元和の大殉教」から、間もなく400年を迎える。当時は禁教令が敷かれ、キリスト教に対する弾圧が強まっていた時期で、55人は斬首と火あぶりにより処刑された。宣教師をかくまっていた日本人信徒やその家族も対象となり、中には3歳の幼児を含む幼い子どもたちもいた。
カトリック長崎大司教区はこの夏から、400年を記念する行事を行っており、7月には長崎純心大学の片岡瑠美子学長らを講師に講演会を開催。処刑が行われた日である今月10日には、午後1時から長崎市の西坂公園で記念式典を開き、同2時から同市のカトリック中町教会で記念ミサを行う。
55人が処刑された西坂の丘は、長崎の海を見下ろせる場所で、現在は西坂公園として整備されている。55人が殉教する25年前の1597年には、豊臣秀吉の命令により磔刑に処せられた「日本26聖人」が同じ地で殉教している。他にもこの地で最期を遂げた殉教者は多く、その数は合わせて約600人に上るとされる。バチカン指定の巡礼地の一つとなっており、1981年にはローマ教皇として初来日した故ヨハネ・パウロ2世が、2019年には現教皇フランシスコが訪問している。
55人の処刑を命じたのは、江戸幕府2代目将軍の徳川秀忠。江戸幕府は徳川家康時代の1612年と14年に禁教令を出し、宣教師や信仰を捨てない信徒らを国外追放の対象としていた。そうした中、1620年に平山常陳を船長とする朱印船が台湾沖で英・オランダ防衛艦隊に拿捕(だほ)され、長崎の平戸までえい航される。船には商人に変装した宣教師2人が乗っており、長期にわたる取り調べを経て、平山と宣教師2人は、船員12人と共に2年後の22年8月19日に処刑された。
この平山常陳事件でキリスト教に対する不信感を強めた秀忠は、長崎などで捕らえていた宣教師や信徒ら55人の処刑を命令。女性や子どもら30人は斬首され、その首が並べられた前で、宣教師を中心とした25人が火あぶりにされた。火あぶりは、まきを遠くに置くなどして長時間かけ、棄教を促す拷問を兼ねたものだったという。
殉教者の中には、イエズス会のイタリア人宣教師カルロ・スピノラ神父や、ドミニコ会のスペイン人宣教師フランシス・モラレス神父、日本人最初の司祭であるセバスチャン木村らがいた。55人のうち52人は1867年、当時の教皇ピオ9世により、江戸初期に殉教した「日本205福者」の一部として列福された。
元和には他にも、1619(元和5)年10月6日に京都で52人が、1623(元和9)年12月4日に江戸で50人が処刑されている。長崎の55人を含め、これらは日本の三大殉教として数えられている。
長崎大司教区の中村倫明(みちあき)大司教は、元和の大殉教400周年記念祭の趣意書で、「新たな回心の時として自らの信仰を誇りとし、福音宣教の熱意を新たに燃え立たせる時としたい」とコメント。「そのためにも私たちは、この元和の大殉教を遂げられた殉教者たちの証しに耳を傾け、福音の喜びをかみしめ、主の証人としての信仰の歩みを新たにいたしましょう」と述べている。
記念式典や記念ミサの模様はライブ配信される予定。詳しくは、長崎大司教区のホームページを。