「バチカンに眠る日本の記憶~文化と交流450年・教皇の知り得た日本」をテーマにしたシンポジウムが13日、上智大学で開催された。角川文化振興財団が2019年のローマ教皇フランシスコの来日を契機に立ち上げた「バチカンと日本100年プロジェクト」の一環で、プロジェクトで得られた調査・研究成果を含め、元バチカン大使や大学教授など研究者ら10人以上が講演した。
プロジェクトでは、教皇庁文化評議会の後援のもと、バチカン図書館などに存在する日本関係の文書を中心に調査・研究を行った。主な成果には、日本のキリシタンが17世紀に当時のローマ教皇パウロ5世に送った「奉答書」に関する調査があり、シンポジウムでは、調査に携わった上智大学の川村信三教授が基調講演を行った。
1549年にフランシスコ・ザビエルが来日して以来、日本では信徒の数が急速に増え、天正遣欧使節や慶長遣欧使節が教皇との謁見を果たすなどした。しかし同時に、1587年には豊臣秀吉がバテレン追放令を、1614年には徳川家康が禁教令を布告。バチカン図書館には計5通の奉答書が保管されているが、いずれも1620~21年に送られており、その前後には京都や長崎、江戸、東北などで多くの殉教者が出ている時期だった。
当時の教皇パウロ5世は、そうした苦境に立たされている日本の信徒を励ますために書簡を送っており、奉答書はそれに対する返信として書かれたものだった。これらの奉答書がバチカンに到着したのは、後の教皇ウルバヌス8世の時代だったが、ウルバヌス8世も迫害に苦しむ日本の信徒に向けた書簡を送っている。川村氏によると、両教皇以外にもこの時代の教皇たちは日本に向けて書簡を送っており、「日本のキリシタンが苦難にあることに、教皇たちがすごく心を痛めておられることが分かる」と話した。
一方で奉答書は、工芸品として非常に価値の高いものだった。いずれも「雁皮紙(がんぴし)」と呼ばれる最高品質の紙が使用されており、特に都地区(京都、伏見、大阪、堺)の信徒らによる奉答書は金箔も施されており、「工芸品として一級品」だったという。
では、このような奉答書を送った日本の信徒たちは一体どのような人々だったのか。川村氏らは、都地区の奉答書に記載されていた信徒12人の名前と、当時のイエズス会日本管区長であったマテウス・デ・コウロス神父による徴収文書を比較。コロウス神父の徴収文書は、1617年当時の日本の信徒団全国75カ所約700人の証言を集めたもので、都地区の奉答書に記載されていた信徒12人のうち6人の名前も見つかった。
そのうちの1人、京都の信者であった杉山貞信は、奉答書では名前のみの記載だったが、徴収文書には、肩書きと見られる「ミゼリコルジア 長官」と解せる文字も記されていた。ミゼリコルジアとは「慈悲の組」とも呼ばれる病者の看病などを行った信徒によるグループ。その他の人々についても調べていくと、都地区の信徒らは主に中・上流層の人々で、迫害により身の危険を感じながらも、ミゼリコルジアを形成し極貧層の救済活動に当たっていた姿が浮かんできたという。
こうした当時のキリシタンの生き様から、川村氏は「キリスト教は貧しい人たちの宗教だと言われるが、そうではなく、貧しい人たちを心に留める宗教」だと指摘。奉答書の署名者には後に殉教する者もいるなど、実際に非常に厳しい状況に置かれていたが、聖書の教えに従い、最も貧しい人々のために生きた日本のキリシタンたちの姿に大きな意義を感じると語った。また、そうした日本の信徒たちを決して忘れなかった教皇たちの存在にも触れ、「奉答書は、そうした日本人と教皇との絆の証し」と伝えた。
シンポジウムは、第1部で川村氏のほか、元バチカン大使の上野景文氏と、慶応義塾大学の浅見雅一教授がそれぞれ記念講演と基調講演を行い、第2部では、バチカンと日本に関する研究を行ってきた9人が登壇。第3部では、登壇者全員によるディスカッションが行われた。
バチカンと日本100年プロジェクトは、クラウドファンディングによる寄付を通してプロジェクトを支える「文化交流パートナー」を募集している。寄付は3千円から可能で、寄付額に応じてさまざまなリターン品が用意されている。締め切りは来年1月9日。詳細は専用ページを。