不条理なる死を不可知の光で中和せよ―キリスト教スピリチュアルケアとして―(26)
※ 前回「そりゃないでしょう的なバベル譚(その1)」から続く。
名を高める戦略
名を高める。そうである。名を高めるためにバベルの人々は頑張ったのだ。どんな小さなコミュニティーといえども、その中で名を高めることには意義がある。とはいえ、名を高めるというのは実のところ戦略的な事柄であって、けして成長的な何かではない。言葉を変えれば、ボス争いだ。いつも敗北ばかりしている筆者は、その手段をうまく説明はできない。ただし、彼らがボス争いをしていたわけではないというのは明白な事実であって、そこには人間的な不純はないのだ。
口というものは、味わうために存在しているはずで、ついでに言えば、空気を吸う機能もある。しかし、言葉というのは人間特有のものだから、生物学的には口が本来持つ機能ではないだろう。また、言葉を発するにしても、現代社会なら毒を吐き出す機能の方が大事であって、説得するとか、導くとか、信じさせるとか、そういう方向に使用される場合はろくな結果を生まないものだ。とにかく口から出る言葉で勝負している連中はあんまり尊敬できないのは確かで、それを証拠に政治家などというものは昔から9割方が不良品である。われわれ一般市民には扱いようもないので適当に放置しているだけで、本当のところは、政治家の言葉をうのみにしているわけではないのだ。
さて、名を高めて勝負に打って出たのがバベルの人々であったわけだが、果たして誰を意識していたのであろうか。彼らの名を高める動機は「全地に散らばらないようにしよう」(創世記11:4)ということであった。ただし、この言葉にはいろいろと解釈の難しい点がある。神によって散らされることがないように、ということなのか、それともただ単に彼らの団結を強調しているのか、そのあたりは明確ではない。明確ではないが、彼らには重要な合い言葉なのだ。つまり、言葉の下に一つとされているのだ。というよりも、言葉によって一致団結しているというべきだ。バベルの人々には言葉が大きな意味を持つということを心に留めておこう。
バビロンをモデルに?
筆者としては、バベルの塔がノアの箱舟に続いて語られているので、そういう意味で前回述べたとおり、彼らは「神による滅び」を意識しているように思う。確信はないが、とにかくそのように受け止めることにする。間違いのないところで語るなら、バベルの人々は洪水を生き延びた者たちの子孫である。前回も触れたように、滅びの記憶はかなり鮮明に語り継がれるものである。そして、これは大切なことであるが、あの大洪水が「神によってなされた」ことを、この人々は自覚していたはずだ。神はその気になれば、再びあのようなことを「しでかす」やっかいな存在であると理解している。
虹を見たら神と人間との契約を思い出せ、とノアの物語には書かれているが、それは「再び洪水によっては滅ぼされない」という約束にすぎない。人間が受け継いでいる滅びの記憶は洪水だけではない。「地震、雷、火事、オヤジ」である。オヤジの部分が人間には想像もつかない方法でということを暗示しているわけだが、ともかく滅びはあり得ると自覚している点はなんともだ。現代人の多くが、まるで人類が永遠に生き延びるかのごとく錯覚しているのに比べれば、随分と謙虚ではないか。天災は忘れたころにやってくる。神の怒りもまたしかりである。人間側として、何とかなるなら何とかしたいのだ。
彼らはシンアルの地にやって来てそこに住み着く。そして、巨大な塔を建てようとしたわけである。シンアルという地がどこなのかは分らないのであるが、シュメールと名前が似ていると指摘する人もいる。そのシンアルが後にバベルと呼ばれることになる。バベルという名はバビロンを意識しているのであるが、ヘブライ語では混乱を意味する言葉に由来するらしい。一言で言えば、嫌みであろう。バビロニアの首都バビロンは世界随一の大都市ではあったが、世界一混乱した場所であったのかもしれない。ちなみにバビロンは、シュメール語では「神の門」という意味になるらしい。バビロンの町そのものは、いろいろな勢力によって入れ替わり立ち替わり支配され、果ては幾たびの洪水に遭い、最後は砂漠の中に埋もれる運命にある。そういうその後の歴史を織り込んで、バベルと名付けられたということはあり得ないだろうが、偶然だとしても面白い。
それなりに民主主義だったのではないか
はっきりしているのは、バベルには王らしき人物がいないということだ。権力者の命令で巨大な塔を建てているわけではない。そういう意味でピラミッドとは全く違う。イスラエルの民は後にエジプトで奴隷となり酷使されることになるが、こうした強制労働によってバベルの塔が建てられていないという点は重要だ。
創世記11章3節を引用してみよう。「さあ、煉瓦(れんが)を造ってよく焼こう」。日干し煉瓦ではなくて、陶製の煉瓦である。たかが煉瓦と言うなかれである。粘土というのは、薄く焼くのは比較的簡単であるが、塊を焼くのは厄介らしい。なぜならば、外側と内側で温度差が生じてしまうからである。その結果、破裂が起こり得る。そうならないために、粘土をよくこねて中の空気をしっかりと抜かなければならない。つまり、陶製の煉瓦というのは高度な技術を伴うわけである。そのような営みを、王の命令ではなく、いわば市民の自発的な協力の下に開発して行ったということである。その目的はもちろん、天まで届く巨大な塔の建設だ。建築については詳しくないので何とも言えないが、巨大な塔を造り上げることになれば、煉瓦の質が問われるのではないか。大きさ、重さの均一化が大事である。ミリ単位ではなくて、その10倍くらいの精度が必要なのかもしれない。彼らはそれを成し遂げたのである。人間文明の勝利である。
ジッグラトは神の玉座である
では、頂が天に達する塔を建てるというのは何を意味しているのだろうか。バベルの人々は天を乗っ取るつもりだったのか。それは恐らく違う。よく言われることだが、バベルがバビロニアのジッグラトを意識しているとしたらどうだろうか。ジッグラトというのは、ピラミットと違って墓ではない。ジッグラトは玉座であるというのが大体の定説になっている1。あるいは、塔の部分は神殿であったともいわれている。どちらにしても、神をそこに招待するのが目的になる。そうだとしたら、バベルというのは神殿町といってもよい。頂が天に届くというのは、それくらいの志ということであって、実際に実現可能だとは彼らも考えていなかったであろうし、人間というのはそういう意味では愚かではない。
むしろ、現代人の方がずっと危ないのではないか。今なら宇宙に浮かぶ人工衛星を観測するソフトが無料で手に入る。それを見れば、われわれ人間がどれほどに天上から見張られているのか理解できる。肉眼ではっきり見える一等星や二等星の数どころではない。たくさんの人口衛星が地球の上に浮かんで、われわれを見張っているのだ。何ともやるせない時代になったものである。
そのような不遜なことをバベルの人々が考えたわけでもないだろう。もしかして高い塔から世界を監視するつもりだったのかと思われるかもしれないが、実際のところシュメールの砂漠には何もないわけで、それほど高い塔を建てなくても見張りの役目は果たせたのではないか。意味の捉え方はいろいろあると思うが、とりあえずバベルの人々が神を迎えるために、神殿である塔を造ろうとしていたことを理解しなければ、この話は味わい尽くせない。バベルの人々は神を恐れぬ無法者ではなく、神の存在を十分に意識しつつ、人間のあらゆる知恵と力を駆使して神殿を造り、そこに神を招き入れようとした人々なのだ。(続く)
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