「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます」(ヨハネ12:24)
野生の猿を捕らえる方法として、以前は鉄製の罠でガシャンと挟んでいましたが、猿を傷つけるので別の方法が考え出されました。その方法とは、入り口が狭くなっている缶や瓶の中にバナナを入れて、固定しておきます。すると、猿がやってきて手を入れて中のバナナを取ろうとします。しかし、バナナを握っているので手が抜けません。慌てている猿に袋をスッポリかぶせて生け捕りにするのです。
「そんなバナナ!」しかし、私たちは猿を笑えません。私たち人間も、一度手にした自分の地位、立場、肩書、富を自分のためにしっかり握って離そうとしません。また、自分の意思や主義主張に固執し、明らかに間違っているにもかかわらず変えようとしません。自分の所有しているものを手放そうとしない生き方を、イエス・キリストは「自分の命を愛する」生き方だと言われ、そのような生き方は永遠に残るような豊かな実を結ばないと警告されました。
2006年10月2日、米国のペンシルベニア州ランカスター郡ニッケルマインズという町で衝撃的な事件が起こりました。アーミッシュの小学校に銃を持った錯乱状態の男が侵入し、少女10人を撃って自分も自死しました。
「アーミッシュ」とはクリスチャンのグループで、自動車・電気・携帯電話などの文明を拒否し、200年前の生活をする非常に敬虔で穏やかな人々です。犯人はトラック運転手のチャールズ・ロバーツ(32歳)で、妻と3人の幼い子どもたちがいました。彼は4通の遺書を残しています。その中には絶望感がぶちまけられています。
9年前に初めて生まれた女の子をわずか20分で亡くした体験から立ち直れなかったことや、姉への怒りが書かれていました。また、自死直前に校内から妻に携帯電話で連絡し、別の恐ろしい秘密も打ち明けています。それは、20年前に親戚の幼い少女2人に性的ないたずらをしたこと。そして、再び同じような欲望を抑えきれなくなったこと。ロバーツは生徒たちに性的ないたずらをするつもりで侵入したけれど、その前に警官隊が到着し、銃撃が始まったと当局は見ています。
ロバーツは銃を持って小学校にいきなり侵入し、大人と男の子は全員外へ出し、女の子だけ10人を中に残し縛りました。そして銃で撃ち、10人のうち5人が死亡しました。この時助かった女の子たちが驚くべき証言をしたのです。
10人が縛られて犯人が銃で撃とうとしたとき、10人の中の13歳で最年長のマリアン・フィッシャーという子が、自分を最初に撃つように訴えていたのです。自分が犠牲になれば、年下の子たちが助かるかもしれない。少なくとも時間が稼げると思ったのです。すると、12歳の少女が「その次は私を撃って」と申し出たのです。
何という少女たちでしょうか!普通なら恐怖でパニックに陥り泣き叫び、とても他人のことまで気が回らなくてもおかしくない状況の中で、何という冷静さ、何という勇気、そして何という気高い愛の行為でしょうか!
これだけでも注目に値する事件ですが、世界を驚かせたのは、事件の後に被害者家族であるアーミッシュの人々が犯人の家族にとった行動でした。
事件の当日、アーミッシュは犯人ロバーツの妻エイミーや両親のもとを訪れ、赦(ゆる)しと慰めの言葉を伝えたのです。ロバーツの葬儀の前日には、自分の子を埋葬したばかりのアーミッシュの親たちが何人も墓地へ出向いてエイミーにお悔やみを言い、抱擁したのです。そして、ジョージタウン・メソジスト教会で行われたロバーツの埋葬では、75人の参列者の半分以上がアーミッシュだったのです。
ロバーツの家族はこう述懐しています。「35人から40人くらいのアーミッシュが来て、私たちの手を握りしめ涙を流し、それからエイミーと子どもたちを抱きしめ、恨みも憎しみもないと言って赦してくれました。どうしたらあんなふうになれるんでしょう」
事件から数週間後、ロバーツ家の人たちと子どもを失ったアーミッシュの家族たちが面会し、悲しみを分かち合いました。その場の雰囲気を、アーミッシュの指導者はこう語っています。
「私たちは輪になって座り、順番に自己紹介をし合いました。エイミーはただ泣きじゃくるばかり。ほかの者も話しては泣き、話しては泣いていました。私はエイミーのそばにいたので、彼女の肩に手をかけ、立ち上がって慰めようとしたのですが、自分も泣いてしまいました。本当に心が震えるような経験でした」
ニッケルマインズで起きた乱射事件が報道されると、世界中からさまざまな支援の手が差し伸べられました。銀行に義援金の口座が開設されましたが、事件発生から数カ月の間に世界中から寄せられた義援金は400万ドル。アーミッシュは基金の一部をエイミーに渡しました。
この事件の影響は、これにとどまりませんでした。このアーミッシュのイエス・キリストにある気高い愛と赦しの行為は多くのクリスチャンの信仰を励まし、また多くの人々、特に若者たちの足を教会へと向けさせたのです。
銃の前に自分の命を差し出して他の子どもたちの命を救おうとした少女の姿、自分の愛する子どもたちを殺されたアーミッシュの人々がとった犯人家族への行動。それは「バナナを握り締めて離さない猿」とは対極にある生き方ではないでしょうか。
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