ロシアによるウクライナ侵攻のニュースが連日報じられる中、戦争をめぐる自らの歴史を見つめ直そうと、同志社大学神学部・神学研究科が6日、公開シンポジウム「戦争と同志社」を開催した。戦時下の同大で神学科主任を務めた有賀鐵太郎(てつたろう、1899~1977)を父に持つ、有賀誠一氏(カナダ合同教会引退牧師)が講演し、同大の歴史に詳しい社会学部教授の吉田亮氏がコメンテーターとして語った。
司会を務めた神学部教授の小原克博氏は、現在ウクライナで起こっている戦争について、「現地で何が起こっているのか映像として届くが、あたかも戦争映画を見ているように映像を消費する私たちがいる」と指摘。また、今のロシアはかつての日本の姿と二重写しになる面があるとし、ウクライナの戦争を他人事ではなく、しっかりと受け止めるための手掛かりとして、シンポジウムを企画したと説明した。
自由主義から軍国主義に一変
米国でクリスチャンとなった新島襄が、帰国後の1875年に創設した同志社大学は、1900年代初頭までは大正デモクラシーの恩恵を受けるなどし、自由を謳歌(おうか)する時代が続いた。1917年に同大の神学科に入学した鐵太郎も、そうした雰囲気を肌で感じながら学生生活を送った。鐵太郎はその後、22年に卒業すると、米国のユニオン神学校に留学。帰国後、26年に神学科の専任講師に就任する。しかし学内は、それまでのキリスト教に根ざした自由主義的な雰囲気から、軍国主義的な雰囲気に様変わりしていた。留学中のわずか数年の間に起きたこの異変に、大きなショックを受けたという。
鐵太郎は民主主義的な考えを持つ他の教授らと学内で抵抗活動をし、30年に教授になると、当時北京にあったキリスト教主義の燕京(えんきょう)大学に交換教授として赴き、緊張が高まる日中間の関係改善に努めるなどした。しかし、軍国主義的な風潮はますます強まり、湯浅八郎が総長だった35~37年には、配属将校の暴走などにより、「同志社事件」と呼ばれる5つの事件が立て続けに起こる。そのため、湯浅は総長を辞任。後に米国へ亡命することになる。鐵太郎もこの間、ユニオン神学校に再留学し、一時日本を離れた。そうした中、39年には四女一男の末子として、誠一氏が誕生する。
抵抗から妥協へ
次に総長となった牧野虎治は、抵抗的な姿勢を示した湯浅とは対照的な性格であったこともあり、軍国主義的な圧力がますます強まる中、同志社大学は妥協に次ぐ妥協をしていく。太平洋戦争勃発後の43年、鐵太郎は神学科主任となる。戦争の真っただ中にあり、同大の専門学校格下げ問題や学徒動員、学生や若手教員の応召・戦死などの対応に明け暮れる日々を過ごした。当時の誠一氏は4歳だったが、非常に疲れた様子の父の姿を覚えているという。
神学科が開催した祈祷会も、配属将校や特高警察の矛先をかわすため「戦勝祈祷会」と呼ぶなどしていた。戦後、誠一氏は高校生の時に、「お父さん、何でもっと抵抗しなかったの?」と聞いたことがあった。これに鐵太郎は、「もしもそうしていたら、お父さんは英雄になれたかもしれないが、それでは同志社を守ることにはならなかったのだよ」と悲しそうに答えたという。
妥協から忍従へ
キリスト教は敵国の宗教として批判の的にされ、それは小学校に通う幼い子どもたちの間でも同じだった。誠一氏の姉の一人は、自宅で神棚を拝んできたか教師が生徒たちに確認したとき、他のクラスメート全員が手を挙げる中、半分くらいまで手を挙げたが、途中で下ろしたことがあった。卒業後50年余りして初めて開かれた小学校の同窓会で、一人の同級生がその出来事を覚えていて、「勇気のある人や、偉い人やと思ったわ」と声を掛けてくれたという。その姉は誠一氏に、「学校では本当に肩身の狭い思いをしていて、うそをついてでも手を挙げようと思ったんだけど、挙げられなかった。でも、50年たっても覚えてくれている人がいて、本当にうれしかった」と、涙ながらに話してくれたという。誠一氏はこうしたエピソードを紹介しつつ、「そんな殺伐とした時代だった。当時の日本のクリスチャンは、大人も子どもも毛を刈る者の前に黙(もだ)す羊のごとく、耐え忍ぶことしかできなかった」と語った。
同志社大学のキャンパスも戦争の影響を強く受けた。ハリス理化学館の前に掘られた塹壕(ざんごう)では銃撃訓練が行われ、キャンパス内の空き地やテニスコートは食糧難のため開墾して畑として使われた。食糧が乏しく、当時6歳だった誠一氏の体重は11キロと、現代の同年齢の平均体重の半分ほどしかなかった。
鐵太郎らが守ろうとしたもの
戦時下の同志社大学を「抵抗」「妥協」「忍従」の3つの言葉で語った誠一氏は、タイプの違いはあっても、湯浅や牧野、鐵太郎らは、何とかして大学を守ろうとしたのだと強調。そして、彼らが守ろうとした中心は、創設以来掲げてきたキリスト教であり、当時の日本政府が同大から最も奪いたかったのもまた、キリスト教そのものだったと語った。
一方、学生や若手教員の中には戦死者もおり、復員した者もまた心に深い傷を負っていた。誠一氏も、戦地で経験した悲惨な話を聞く機会が多くあり、その度に心を痛めたという。また、神学科主任であった鐵太郎に対する非難の声もあり、息子として心苦しい思いをした。しかし、元学生の中には、鐵太郎が一言も弁解せず、皆の前で両手をついて「すまなかった。本当にすまなかった」と涙を流して謝り、それに学生たちも涙で応じたと、当時の様子を語る人もおり、誠一氏自身も慰められたという。
今、私たちは何をなすべきか
同志社大学の戦時下の歩みを振り返った上で誠一氏は、当時の日本と現在のロシアの類似点を指摘。一方で、「どちらの側に立っても、戦争そのものが悲劇」だとし、太平洋戦争で日米が争っていたときも、日本人のために心を痛める米国人がおり、米国人の心の痛みを知る日本人もいたとし、その一人が鐵太郎だったと語った。
誠一氏には、ロシアの現政権による拷問被害者を支援してきた心理学者の友人がいる。しかし現在は、ロシア当局の目を逃れて森の中に避難しているという。「戦争は一旦始まってしまうと、終わらせることは本当に難しい。戦前・戦中の同志社とその首脳陣を後から批判するのは簡単だが、今の私たちが、これから80年後の人たちから非難されないだけの正しい考えや行動をしているといえるだろうか」。誠一氏はそう問い掛け、「ウクライナのために、またロシア内部で苦悩している平和主義者のために、今、私たちは何をなすべきか問われている」と語った。