高齢になった両親に寄り添うため、前職を早期退職して関西に移り住み、早10年が経過しました。その間、次第に弱くなる両親との距離を縮めてきましたが、昨年11月に母が急逝し、認知症の父(97歳)が残されました。
コロナ禍の中、父を施設に入居させると面会も難しくなるため、急きょ、召された母に代わり、私自身が父と同居することになりました。親子とはいえ、半世紀近く一緒に暮らしたことはなく、介助の必要になった父を支えられるのか、かなり不安なスタートでした。
家族や職場の仲間に支えられ、無事半年が過ぎましたが、最近ようやく父との時間を楽しめるようになってきました。いまだ不安は残りますが、神様は最善の時間を下さっているように思います。
急激に弱さが募る
父は90歳ころまでは、パソコンやスマホを扱えるほどしっかりしていたのですが、この数年、体力、知力の衰えは激しく、今では生活全般に助けが必要になってきました。
私も仕事を抱えていますので、平日の9~15時はデイサービスでお世話になり、その間近隣にある事務所で働き、それ以外の時間は父の傍らで可能な限り業務を続けています。
弱さが募る中では、必要な介助が徐々に増えていきます。父の様子を注意深く観察しながら工夫を重ねていますが、子育てとの違いは、当然のことですが、介助の限界が近づいている不安を常に背負っている点にあります。
貴重な「善き隣人」の存在
日本の介護保険制度は大変ありがたく、大いに利用させていただいていますが、自宅で介護できる人の存在が前提になっているため、同居家族の負担が大きくなる懸念があります。
今春、私たちが創設した一般社団法人 善き隣人バンクは、そのような家庭に対しても「善き隣人」になることを目指していますが、正に自分自身がその大切さを実感する立場になったわけです。
幸い私自身は、家族や職場の「善き隣人」に恵まれ、負担を軽減できる環境にあります。しかし、核家族化、高齢化の進む現代社会では、私のような存在は例外であり、多くの人が「善き隣人」を求めておられるように思います。
知性の衣を脱いで共に祈る
父と生活するに当たり、目標にする生活スタイルとして、フランソワ・ミレーの代表作「晩鐘」のイメージと、テサロニケ人への手紙第一5章16~18節を心に刻んでいます。
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(テサロニケ人への手紙第一5章16~18節)
幸い10年以上前、両親に聖書信仰を伝えるためにこの「晩鐘」の絵をプレゼントしていたことから、既にリビングにはこの絵が飾られていました。
父は、その当時から信仰には興味を示さず、父と共に祈ることなどあり得ませんでした。しかし弱さの増した今では、この絵を自ら大切に保有してきたものと思い込んでおり、うれしいことがあると2人でこの絵に共感しながら感謝できるようになりました。
また私が、キリスト教用語を避け、1日の節目に感謝の祈りをささげると、単調な毎日にも良いメリハリが生まれます。
例えば、朝の着替えを済ませ、リビングに向かうとき、「新しい朝をありがとうございます。良い1日になりますように・・・病気やケガをしないように守ってください・・・食事もおいしく食べられるように助けてください・・・」など、私が大きな声で祈ると、時折父は「分かりました!」と元気に応答し、スムーズな1日のスタートになります。
もちろん「分かりました!」は「アーメン!」ではないですが、認知症の進んだ父と私の祈りは、これでいいように思います。
認知症の恵み
聖書によると、人は善悪の知識の実を食べて以来、神様から離れ、自分の知性を積み上げ、自らの判断で人生を生きるようになりました。父もキリスト教信仰についてはかなり偏った知識を積み上げ、聖書を開くことも教会に来ることもありませんでした。
しかし、まれに父が状況に合わせて黙祷する様子を見ていた私は、いつか共に祈れるようになると信じてきましたが、父の認知症のおかげもあり、その時を迎えることができました。
もちろん、父には福音を知的に理解する力は既にありませんが、聖霊は、今の父にふさわしい方法で寄り添ってくださり、最善の導きを下さることを信じています。
この先、このような生活がいつまで続くか分かりませんが、神様の下さった目標に沿って、父との祈りを積んでいきたいと願っています。
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