聖書をどのように生きるか。私たちにとって、生きるということは一つの大きな事業です。この大事業をどのように管理していくか。たとえビジネスをしていないあなたも、例外なく「自分の人生」の経営者といえるのです。ですから「ビジネスと聖書」を共に考え、実行し、バランスの取れた幸せを手に入れてまいりましょう。
本日の結論
イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです」(マルコ7:14、15)
パラダイムとは何か?
パラダイムという言葉はギリシャ語に由来しています。もともと科学用語でしたが、昨今はモデルや理論、認識、枠組みを意味する言葉として広く用いられています。平たく言えば物事の「見方」であり、物事をどう認識し、理解し、解釈しているかです。ここで興味深い体験をしていただきたいです。まず上の絵Aを数秒間見て、次に以下の絵Bを見て、あなたが見たものを詳しく説明してみてください。
女性の顔に見えたでしょうか。何歳ぐらいの女性で、どんな感じの人でしょうか。服装はどうでしょう。どういう立場の人に見えるでしょう。あなたはおそらく、2枚の絵の女性は25歳くらい、小さな鼻が愛らしい美人で、流行のファッションで身を包み、華やかさを感じさせる人だと描写するでしょう。あなたが独身男性なら、デートに誘いたいような女性かもしれません。ファッション業界で働いているならモデルに採用したいと思うかもしれません。
しかし、あなたが受けた印象はことごとく間違っているかもしれません。その絵の女性が60歳から70歳くらいの悲しげな老婆で、鼻は大きく、とてもモデルになれそうもない女性だったらどうでしょう。デートの相手どころか、道路を渡る手助けをしてあげなければなりません。
どちらが正しいのでしょうか。もう一度、絵を見てください。お婆さんの顔に見えてきたでしょうか。見えてくるまで、絵とにらめっこしましょう。大きなかぎ鼻やショールが見えるでしょうか。この絵を前にして、私があなたと面と向かっていれば、自分に見えているものをお互いに納得がいくまで話し合えるでしょう。残念ながらそれはできないので、下の絵Cをよく見てから、もう一度、絵Bを見てください。今度は老婆に見えるでしょうか。老婆に見えるまで目を凝らして頑張ってみてください。(スティーブン・コヴィー著『7つの習慣』より)
パラダイムの違いが争いを引き起こす
上記の女性の絵の話を以前お聞きになったことがあるか、または初めての方もいるかもしれません。私たちの思い込みによって、自分とまったく違った意見に聞く耳を持てない、逆に、違った意見の人を見下したり、変人扱いしたり、無視をしてしまうのです。反対の意見に聞く耳を持つことができるならば、世界は広がり、斬新なアイデアが与えられるかもしれません。
今日はマルコの福音書7章から、イエス様の教えをシェアしたいと思います。イエス様はいつものように大衆の前でたとえ話をされましたが、大衆も、また弟子たちも意味が分からないまま、イエス様はその場を離れてしまいました。しかしその後、弟子たちだけを前に、イエス様は愛をもって解説してくださるのです。
イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」イエスが群集を離れて、家に入られると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人に入って来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。そのような物は、人の心には、入らないで、腹に入り、そして、かわやに出されてしまうのです。」イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。(マルコ7:14〜19)
パラダイムシフトで話されたイエス様
外側から人に入ってくる物が人を汚すと信じている私たちに、人から出るものが人を汚すと、パラダイムシフト(考え方の移行)をもってユニークに話されたイエス様。人間の創造者であるイエス様は、人が心の中で何を考え、どのように行動しているかのすべてをご存じです。人の内側から出るものが、外側から人に入ってくる物以上に人を汚すと言われる言葉には、説得力があります。
また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです」(マルコ7:20〜23)
最初の人アダムから最後のアダム・イエス様へとパラダイムシフト
人は、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさを心に持ったまま、この世に生まれてきました。これを原罪といいます。真面目に人生を生きてきた人ほど、この原罪が理解できずに、イエス様を救い主、癒やし主と信じることが難しく、回心までに時間がかかるのです。その半面、悪を心思うまま実行して生きてこられた方は、原罪についての理解が速く、悔い改め、回心、受洗へと導かれます。人は悪いことをしたから罪人となるのではなく、罪人として生まれてきたがために罪を犯すのです。初めにアダムとエバが神様の命令に従わなかったことによって、人類に罪が入ってきたのです。そして、最後のアダムと呼ばれるイエス様によって、人は罪赦(ゆる)され、永遠の命を持つことができるのです。これが人類究極のパラダイムシフトなのです。
本日の結論
イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです」(マルコ7:14、15)
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