神は高慢な心を嫌われます。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません」(1コリント13:4)。神は愛です。愛であられる神が心に住まわれるなら、高慢になることはありません。
高慢とは、神から離れた状態から生じる心です。そして、高慢は発展していきます。「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」(箴言16:18)と語ります。「高慢」と似た言葉に「傲慢(ごうまん)」があります。「高慢」は心の中での高ぶった状態ですが、それが外側にあらわれた状態が「傲慢」なのです。
「まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです」(マタイ12:34)。口は心にあることを雄弁に語ります。そして、口で語ることが行動となり生き方になり、人生そのものになっていきます。そうなる前に、高慢な心をへりくだりに変えて謙遜になっていかなくてはいけません。
高慢が高ぶりなのは分かると思いますが、謙遜は低くなることでしょうか。謙譲の美徳といわれますが、これはそう思ってもいないのにポーズとして「いやいやとんでもございません」とへりくだってみせることとは違います。それはわざとらしい謙遜で、実は高慢の一種です。本当の謙遜とは、本当の自分を知り、ありのままの自分を生きることなのです。つまり、高慢は偽りであり、謙遜は真実なのです。謙遜は楽であり、自然であり、人から愛されるし、神から喜ばれ、恵みが注がれます。「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです」(1ペテロ5:5)。謙遜はいいことずくめです。
そしてさらに、自分で自分を高く大きくしようとしなくても、神が引き上げてくださるのです。「だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」(マタイ23:12)。「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです」(1ペテロ5:6)
神抜きで高ぶっても、神に敵対することになり、バベルの塔を建てることと似ています。神という自分を超える存在を認め、そのお方を受け入れ、その方のもとにへりくだって主と共に生きていきましょう。そこにあらゆる祝福と幸せがあるのです。
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