「最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)
福島の現状認識
2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震(M9・0)が発生。地震、津波は東北太平洋沿岸150キロにわたって甚大な被害を及ぼした。さらに津波による福島第1原子力発電所の全電源喪失により、原発3基のメルトダウンが発生。史上最大の原発事故となった。関係者の命懸けの復旧作業にもかかわらず、10年を経た現在も、溶け落ちた核燃料(デブリ)や増え続ける汚染水の処理は進まず、原発周辺に運び込まれる全県の汚染土は、大熊町や浪江町の住民帰還をさらに困難なものとしている。二次爆発の恐れも懸念される中で進められてきた廃炉は、現場作業員の犠牲のもとで現在も長期の行程が予想されている。
事故後10年の間、母親たちは当初から放射線の感受性が高い子どもたちの被ばくへの憂慮の中に置かれていた。そして今年2月、児童や妊産婦への健康調査などに関する「県民健康調査」国際シンポジウムが開かれ、各専門分野の研究者による総括が行われた。それによると、チェルノブイリで見られた事故後の流産、人工中絶、心臓病などは、福島では特異的な増加は見られなかったという。チェルノブイリで唯一放射線との因果関係を認められた甲状腺がんにおいても、4巡目の検査を終えて、疑いも含め診断されたのは252人、手術を受けたのは203人と報告されているが、「県民健康調査」検討委員会の所見は小児甲状腺がんの多発を認めつつも、放射線との因果関係は認められないとした。しかし、検討委員会が多発の原因をスクリーミング効果による過剰診断とした一方、当初より臨床医として診断・手術を行ってきた福島県立医科大学教授の鈴木眞一医師は、昨年2月の検討委員会で、手術した180人について過剰診断説を否定。現在の医学でも甲状腺がんは、いまだ未解明部分のある医療分野であることを示した。
私たちの活動の経緯
震災3日後から、東京・淀橋教会の峯野龍弘牧師、CGNTVの金キョンフン本部長と共に「災害支援緊急援助隊アガペーCGN」を設立。福島県の窓口として支援物資輸送を開始した。3月15日、テレビでは原発の水素爆発の映像が流れ、5キロ、10キロ圏内の避難指示のニュースが流れていたが、原発から60キロ離れ、阿武隈山地が途中をふさいでいる郡山がよもや被ばくするとは思いもしなかった。今思うと3~4μSv/hの空中線量の中で、国内外の支援組織が送ってくれた200トンに余る支援物資を、原発周辺から相馬、いわき、勿来(なこそ)、さらに宮城県の仙台に至るまでトラック輸送を行っていた。当時途中の相馬に向かう山道は、20μSv/h(避難基準は3・8μSv/h)を超えていた。
同年5月、福島県の災害は岩手、宮城の両県と違い、放射線災害にあると知り、子どもたちを内部被ばくから守る意図をもって、安全な水を届けることに特化した「FUKUSHIMAいのちの水」というNPOを設立し、同年12月26日、法人格を取得した。
その頃には、被ばくの危険がある子どもたちは原発周辺から避難しており、県中通りの郡山市、福島市に移住していたので、郡山市に水の無料配給所を設置。月20~30トンの配布を行った。水を求める人々の車が配布場を取り巻き、警察の注意を受けるほどであった。
2014年ごろまでは、国内外の支援団体から支援物資が届いていたが、2015年に入ると支援物資は止まり、代わって国内の廃棄食品活用を目指すフードバンクからの提供品が多くなった。同時に、震災支援の助成金もほぼ終了した。
2015年、供給元の変更、助成金の終了という変化に伴い、NPOの存続が問われたが、郡山市の中心部にある水道貯水池が突然閉鎖されるなどの放射能汚染不安が続く状況の中で、安心な水を求める人々の列が絶えず、継続を余儀なくされた。同年、郡山市の駅前倉庫での配布をやめ、市西郊外の逢瀬町の旧農協跡地860坪、倉庫200坪を借り受け、規模を拡大して配布を再開し現在に至っている。現在、来場者は月800~1000人(世帯)で、月50トンから60トンの水と食料の配布を行っている。2011年から現在まで、累計で1万トン(500mlのペットボトル2000万本分、20億円相当)を超える配布を行った。
今後の展望
2021年現在、文科省による福島県の放射能土壌汚染量をインターネットで見ることができる。それによると、郡山駅前から5キロ圏内の放射能土壌汚染量はセシウム137が180kBq/m2(2018年)あり、放射線管理区域(40kBq/m2)の4・5倍である。福島県の出生数は1年に約1万人であるが、このような汚染土の地域だけでも半数以上の出生がある。検討委員会の所見を尊重したとしても、母親たちの心配を否定することもできない。
2019年、ある行政府から放射線被害への支援は風評被害を助長するとの指摘を受けた。2020年、私たちはウェブサイト上から放射線被害への支援を削除した。代わって、防災備蓄運動へとコンセプトを変更した。これによって、児童だけではなく、生活弱者、傷病障がい者、災害弱者へと支援対象が拡大した。結果的にこれが現在の新型コロナウイルス災害支援への準備となった。
さらに、放射線災害という特異な支援活動の中で、一人の子どもの命を助けることは、すべての子どもの命を助けることと同時・同義性を持っていることを学んだ。今回のパンデミックはまさにそれを指し示している。今後は福島の児童支援を踏まえて、日本と世界の児童・弱者支援に向かってゆく所存である。
一人の子どもの命を救うために
2011年当初は、子どもたちの命を救うことだけに専念していた。3年ほどして、おかしな気分になった。若い母親たちの屈託ない「ありがとう!」という言葉が身にしみてきたのだ。これまで牧師として長年、死に際した人々の感謝の言葉を聞いてきた。しかし、孫のような年代の母親たちの軽い「ありがとう」の言葉が不思議に心にしみた。やがて分かった。自分の命の瀬戸際に言う感謝よりも、自分の子どもに水一杯でも与えてくれる者への「ありがとう」の言葉の方が重かったのだ。「最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」という言葉が思い出された。
毎月累々として人々が水と食料を受け取っている。配る者たちは台車を押して走り回る。受け取りに来るのは800~1000人ほどの母親たちだが、その背後には数千人の子どもたちがいる。ガリラヤ湖畔の5千人への給食が目の前に浮かぶ。神の国は私たちのただ中にあった。ある時から配る水をキリストの血潮と信じた。パンはキリストの身体。母親たちは持って帰った水を子どもたちに与え、パンを食卓に載せるだろう。私たちは大いなる聖餐がこの地方を覆っている幻を見ているのだ。毎日、数百トンの水と食料をリフトで倉庫に積み上げている。昔、アッシジのフランチェスコが一人で廃墟となった教会の石を積み上げていったように、今私たちはここに神の国を積み上げている。確かな現実として。
最後に
確かに東北大震災とその後の災害は理不尽に思えた。多くの人々が神に問うたのも仕方がない。3・11の時に教会からスタッフとして、私と2人の女性がこの働きの召命を受けた。2018年、その1人ががんで召された。子どもたちのために花壇を耕して花を育てていた。「先生、私は土を触ったからがんになったのかな」と私に言った。もう1人は難病の中で奉仕を続けている。病床において3人で祈り始めた礼拝が、今は開拓教会となっている。気付くと廃墟の中に十字架が立っていた。私たちは十字架の周りに石を積み上げているにすぎない。それが、今と永遠との同時・同義性を持っていることを、主はこの10年、見せてくださった。
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