この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。(コロサイ1:27)
ラジオ番組の子ども相談コーナーに小学生が電話をかけてきました。「うちのお母さんは毎日毎日ボクに口うるさく言います。朝は早く起きなさい。食事の前には手を洗いなさい。宿題が済んでから遊びなさい。ゲームは決められた時間でしなさい。夜は早く寝なさい。本当に嫌になります。ボクはどうしたらいいのでしょうか」
それに対する相談員の先生が答えました。「朝は早く起きなさい。食事の前には手を洗いなさい。宿題が済んでから遊びなさい。ゲームは決められた時間でしなさい。夜は早く寝なさい。以上、終わり。ハイ、次の方どうぞ!」
もし私たちが律法(聖書の教え)の所に行って「豊かで、幸せで、充実した人生を送るにはどうしたらいいのでしょうか」と聞くなら、律法は言うでしょう。「偶像の神々から離れ、真の神を愛し、心から仕えなさい。そして両親を敬い、盗まず、殺さず、姦淫もせず、うそをつかず、人の物を欲しがらないで生きていくことです。以上、終わり。ハイ、次の方どうぞ!」
しかし私たちはそれは分かっているのです。「分かってはいるけれど、できない。こんな私はどうすればいいのですか」。その答えは律法の中にはありません。イエス・キリストの福音の中にしかないのです。
イエス・キリストは十字架と復活を通して「背きと罪の中に死んでいた」私たちを生かしてくださったのです。この救い主イエス・キリストを信じるとき、「キリストの霊」が私たちの中に宿ってくださるのです。私たちがこの「キリストの霊」に信頼して従って歩むとき、私たちの内でいのちとなり力となって導いてくださるのです。イエス・キリストを信じる者(クリスチャン)の歩みとは、聖書の教えを学んで、それを一生懸命に守ろうとする生活ではなく、内におられるキリストにより頼みながら歩む生活です。
想像してみてください。もし、今モーツァルトがよみがえってあなたの中に入って、あなたの思索、感情、肉体のすべてを完全にコントロールしたら、あなたは何をすると思いますか。ピアノの前に座って次から次へと名曲を作曲し始めることでしょう。もし、ピカソがあなたを支配したら、あなたは真っ白なキャンパスに向かって絵を描くでしょう。そして、それには想像を絶するような高値が付くのです。
もちろんモーツァルトもピカソも単なる楽しい空想で、現実の話ではありません。しかし、イエス・キリストを信じる者の中に「キリストの霊」が宿っているのは現実のことです。パウロは「奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト」と言いました。キリストを信じる者の中におられるキリストが、その人のすべてを完全にコントロールしたら、どんな人生になると思いますか。想像しただけでワクワクしませんか。
イエス・キリストに生かされる人生は何と喜びにあふれたものでしょうか。
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