あなたのみことばは私の足のともしび 私の道の光です。(詩篇119:105)
「ダブル・スタンダード」とは同じ事をしているのに2つの基準と評価があることです。
例えば
- 他人が仕事に少し余計に時間をかけると「手際が悪い」と言い
自分の場合は「慎重で良い」と言う - 他人が頼まれていたことまで自覚的にやると「出しゃばりだ」と言い
自分の場合は「よく気が利く」と言う - 他人が些細なことを無視すると「注意力が欠けている」と言い
自分の場合は「大らかで、こだわりがない」と言う - 他人が自分の意見を変えないと「頑固で融通が利かない」と言い
自分の場合は「自分の意見をしっかり持っている」と言う - 他人が一生懸命努力していると「目立ちたがりの嫌なやつだ」と言い
自分の場合は「勤勉で向上心がある」と言う - 他人が上司の仕事を手伝っていると「胡麻を擦っている」と言い
自分の場合は「従順で協力的だ」と言う - 他人が元気で生き生きしていると「格好をつけている」と言い
自分の場合は「実に魅力的だ」と言う - 他人がお化粧して、着飾っていると「代わり映えがしない」と言い
自分の場合は「一段と美しくなった」と言う
誰にでも身に覚えがあるのではないでしょうか。実は私たちは、このような行動に対する評価だけでなく、自分の心の状況についての評価も自己中心的なのです。
聖書が「すべての人は神の前に罪人である」と言うのを聞いても「しかし自分はまだマシの方だ」と言って自分の心の状況の悲惨さを直視しようとしません。善悪の基準が曖昧だと、人は自分がしていることを正当化しようとします。
ある小学生が友達のゲーム機を盗みました。それを知った先生が注意したら、その子は言いました。
「ボクがしたことは、先生から見たら悪いことかもしれないけれど、ボクにとってはいいことなんだけど。ボクはこのゲーム機でハッピーな気分だし、それにあの子の家は金持ちで、あの子はもっと新しい最新のゲーム機を買ってもらえるんだ。だから、これはボクにとっても、あの子にとってもラッキーなことなんだ」
これを聞いてどう思いますか。世も末だと思いますか。しかし大人だって同じような理屈で同じようなことをしているのではないでしょうか。
人間社会が善悪の絶対的基準を失ったらどうなるのでしょうか。ポーランドの刑務所の壁に次のような言葉が掲げられています。
「私はドイツを良心と道徳性という愚かで下劣な誤りから解放した」
これはアドルフ・ヒットラーの言葉です。ヒットラーは自分を神として自分の信念を法律としたのです。その結果、多くのユダヤ人の命が奪われたのです。
ドフトエフスキーは警告しています。
「神を無視すれば、どんな事でも正当化できる」
神のことばという善悪の絶対基準を失った国も個人も必ず滅びていくのです。
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