イエスの降誕記事を紹介します。
天尊(父なる神)は涼風(聖霊)を、名を末艶(マリア)という一童女に向かわせると、涼風はマリアの腹の中に入りました。すると天尊が教えた通り、末艶は懐妊しました。
童女は、男を知らないのにどうして懐妊したのですか、と尋ねました。天尊は男夫がないのに懐妊させましたが、それを見聞きした民衆は天尊の威力を知りました。民衆は信じて浄くされ、良き思いを持ちました。末艶は懐妊して一人の男子を産み、名を移鼠(イエス)とつけました。父(ヨセフ)は涼風に向かって「人々は無知で涼風によって懐妊したということは世間では信じません」と言いました。
聖上(ユダヤの王ヘロデ)が命じると、すべての民はこれに従いました。天尊は天上から地上をご覧になり、移數・迷師訶(イエス・メシア)が生まれると天地が明るくなりました。天では大きな星が出、その輝きは車輪が回るほどで、天尊の周辺が浄く明るいように、拂林国(ローマ帝国のユダヤ)の烏梨師斂城(エルサレム)中がそのようになりました。
この記事には、主イエスが童女マリアから降誕したことが記されています。マリアの中に宿った方は聖霊であるかのような表現になっていますが、後述しますように、イエスの受洗の時には聖霊がイエスの上に臨まれたとあることから、イエスと聖霊は別人格として三位一体的に理解していたことは当然と思います。また、イエスの出生地がベツレヘムでなくエルサレムになっていることから、当時の翻訳の不十分さが伝わってきます。
ローマ帝国の表記については、2つの漢字が使われています。一つは拂林国、一つは大秦国で、拂林はコンスタンティノポリスの語尾のポリスを転訛(てんか)してプリンの漢字表記にしたこと、あるいはペルシア人がローマ人をプリムと呼んだことからとも考えられます。大秦国は、秦始皇帝が築いた秦帝国よりも大きいということから大秦国とつけたと考えます。
中国の史書、5世紀に成立した『後漢書』には97年に1人の使者を大秦に派遣したとあり、6世紀に成立した『魏書』西域伝には拂林国とあります。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
旧版『景教のたどった道―東周りのキリスト教』
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