神はわざわざ御子を犠牲にするなんて回りくどいことをしないで、いきなり赦(ゆる)してくれたらいいんだ。
ベストセラーの『ふしぎなキリスト教』の中で共著者の大澤真幸氏は「この(設問)のように神様に提案したくなる」と語っています。しかし、それは十字架のあがないの真意を理解してない勝手な言い分であって、神はそんなことはしないのです。
神は“愛”でありますから、人間が滅びてしまわないよう、罪を赦したいのですが、他方で神は“義”でもある方ですから、罪をそのまま赦すことはできない(つまり、罪をいい加減に扱うことはなさらない)のです。罪はきちんと罰されないとおさまらない。それが義(正義)の要求なのです。
例えば、誰かがうその証言をしてあなたを有罪に陥れ、あなたは懲役3年の刑に処せられた場合、あるいは誰かがあなたの身内の者を殺したという場合・・・「加害者が反省しましたから赦してやってほしい」と言われたらどう考えますか。「それはひどい。反省だけでなく、相応の罰を与えるべきだ」と言うでしょう。罰は正義の帰結、行き着くところなのです。
そうです。罰を受けないではコトはおさまりません。そこで神は、御子を十字架の刑(罰)にかけて死なせたのです。これは、御子にその罰を受けさせたということ、加害者(罪を犯した者)に代わって、畏れ多くも御子イエス・キリストに罰を受けさせたということなのです。
罪を犯した者(あなたも含めた全人類)は、代わって罰を受けてくれたことについてキリストに厚く感謝しなければなりません。この過程は回りくどいことではなくて、どうしても必要な過程なのです。神の本質に関わる問題なのです。つまり、いきなり赦すのでは神の義という本質を無視することになるのです。それは、十字架(刑罰)の死が不必要だとする議論なのです。
神は義である方であり、同時に愛である方です。一方で、義は罰しなければならないとし、他方で、愛は赦してやりたいとする。この相反する両方の要求を、御子イエス・キリストを十字架にかけることで、うまく充たしたのです。
御子が全人類に代わって死んでくれたにもかかわらず、それは自分と関係ないと言うのは、ひどいこと!神の愛のみわざ、あなたも含めた全人類のために御子を死なせたという“御子の犠牲の死”を足蹴(あしげ)にするようなものです。
人間がどう考えようと、神はその義をないがしろにすることはありません。
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