<本文と拓本>32文字(485+32=517)
第2部 景教と皇帝との関係を刻む
太宗文皇帝光華啓運(太宗文皇帝[注]は光華で運を啓き)、明聖臨人(明聖にして人に臨む)。大秦國有上徳曰阿羅夲(大秦國に上徳有り阿羅夲[注]という)、占青雲而載真經(青運を占い、真經を載せ)
<現代訳>
太宗文皇帝の治世が光り輝き、民を明るく統治していたときに、大秦国の優れた宣教師阿羅本が状勢を占い、聖書などの経典を携え
<解説>
[注]太宗皇帝(李世民、598~649、在位626~649。旧唐書の称号には太宗文武大聖大広孝皇帝とある)は、唐代の太祖・李淵の第2子。即位して年号を貞観と改元、20年以上治める。この時代を「貞観の治」と呼ばれ、太平の世といわれた。
太宗は書を能くし特に王羲之(303~379)の書を収集、臨書し自身も能書家となった。李一族の太宗から唐代が開始され、東西交通も盛んとなり、外国との交渉や外国人の往来が盛んとなった。この時代、中国の唐には日本を含め50以上の諸外国の往来があったといわれる。日本では大化の改新(645年)の時代である。
大秦国とは、唐から西方の国々を指すが、特に西アジアのイスラエルを指し、一般にローマ帝国を指す。景教の経典には大秦国ナザレとあることからイスラエル説が出た。京都の太秦は大と太の点があるのとないので違うが、文字的には太は大よりもさらに大きい意味から、太平洋は大西洋より大きいゆえに太となる。それゆえ、唐よりも京都のほうが大きいことを示したいこと、京都には秦国の民が唐よりも多く住むようになったことから、あえて太秦としたのであろうか。
[注]阿羅本はペルシャ人で読みは不明。アラホン、アラベン、アブラハム、アルワーン、アロペン、ラバン等の読みがある。景教徒の初代宣教師。生没年は不詳。宣教師が来る前には商人の信徒がおり、彼らの中にはソグド人もいた。
阿羅本の肩書に大徳・上徳とあり、大徳は12冠位の最高位で皇帝の前に出られる立場である。皇帝に景教を伝えて後に受けた冠位と考えられる(日本では小野妹子が大徳の冠位を受けた)。阿羅本は困難な中、真経(聖書)と像(メシア画のイコンか?)を携え、皇帝に献上した。635年のことである。
唐会要(961年に完成)巻49大秦寺の項に「ペルシア僧の阿羅本が遠く経と教えを携えて京(長安)に来る。詳しくその教旨を聞いて宣教を許可した」とあり、像は記述していない。
では、阿羅本は皇帝に何を献上し、何を語ったのかが問われる。この2つの文から見ると、経・教・像の3点が挙げられ、経は聖書で、教は聖書や景教の教えで、像は碑文にしかないがイコンと考えられる。イコンは聖画像のことで、特にメシアの聖画や使徒たちの聖画であろう。イコンとはギリシャ語でエイコーン・神の似姿で、神の真の似姿はメシアであり、メシアを聖画にして救いを想起したのであろう。現在もメシアの聖画がキリスト教書店で売られている。
阿羅本は太宗皇帝に会い、3年間、書殿で経である聖書を翻訳し、皇帝自身に道(景教の教え)を伝えた。皇帝は道を聞いてよく知り得た結果、正式に伝道を許可した。それが638年である。
900年代に作成し完成した唐会要は、何を底本に記述したのか。第1は景教会に残されていた景教碑と碑を撰述するに当たっての書物なのか。第2は皇帝側に保存されていた記録書なのか。初代宣教師と皇帝との3年間の質疑応答の記録書があるはずと考えると、その発見に期待をしたい。
中国宋代(960~1279)に敦煌の石室で発見された『序聴迷詩所経』(636年ごろの作)と『一神論』(642年ごろの作)は阿羅本の作と考えられ、おそらく長安の翻訳書殿で翻訳の推敲の中、未完成で作成したものと思われる。もちろん、阿羅本1人だけが作成に取り掛かったのでなく、複数のペルシャ人信徒や随行指導者や通訳者たちもいたことは当然考えられる。
尊経の末尾には「西域阿羅本」とあり、唐より西の中央アジア、ペルシャから来唐したことが分かる。阿羅本についてはこの後にも数回にわたって出る。
真経とは、日本では聖書のこと。現代中国語の聖書は「聖経」と書かれる。中国語と日本語の意味や文字はちょっと異なることがある。今日では日本人が手紙をくださいと言うなら、トイレットペーパーが来ることになる。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
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