「キリシタン」という言葉を聞いて何を感じるだろうか。「昔、日本史の教科書で少しやったあれでしょ?」と感じるだけかもしれない。
しかし、400年前の宣教師たちが欧州からはるか遠く離れた異教の地、日本で宣教のために苦闘し試行錯誤した歴史を詳しく知ると、実は現代日本の教会や宣教の課題、そして日本のキリスト教の最大の課題である「文化受容」を考えるヒントがたくさん詰まっていて実はとっても面白い。最新の研究や資料を元に書かれた本書は、最適のキリシタン史入門書にとどまらず、そんな魅力を持った1冊だ。
イエズス会の宣教の課題の現代性
日本のキリスト教の歴史が、1549年のイエズス会士フランシスコ・ザビエルの鹿児島上陸によって始まったことはよく知られている。本書が興味深いのは、16世紀のイエズス会士が宣教の中で、日本人に根付いた文化や宗教観と全く異質なキリスト教の教えをいかに語り、宣(の)べ伝えようかと試行錯誤した過程だ。それは実は現代にもほとんどそのままつながる課題であることも驚かされる。
神と「大日」、十戒は自然法か否か
当初、ザビエルはキリスト教の神の訳語として、仏教の「大日」という言葉を使った。大日如来は真言密教では「無相の法身と無二無別なり(姿・形の無い永遠不滅の真理そのものと不可分である)」とされ、全ての宇宙が集約され、そこから流れ出ていると考えられていた。それをキリスト教における神・イエスの説明として使おうとした。
しかし、そのため人々はキリスト教を仏教の一派として捉えてしまうなど混乱が生じた。そこでザビエルは結局、ラテン語の「デウス」をそのまま使うことにしたという。
実際に宣教する上で最大の課題となったのが、「神の存在を知らなくても救いの対象となるのか?」ということだった。それは「キリスト教が伝わる以前に亡くなった日本人の祖先は救われるのか?」「皆、地獄にいるのか?」という素朴な問いにつながるからだ。この議論は、実は現代日本でも変わらない。家族で1人だけクリスチャンになったとき、家族に洗礼を勧めるとき、これは誰でもぶつかる問題ではないだろうか。そして家の「お墓」はどうするか、これまたよく聞く課題にもつながってくる。
400年前のイエズス会士たちは、これに対して「十戒は神が全ての人間に生まれながらに直接教えた自然法なので、日本人が宣教師から教わらなくても潜在的に身に付いていた」とし、「十戒が守られていたなら救いの対象になり得た」とした。その根拠として、ローマの信徒への手紙の「たとえ異邦人であっても、律法に命ずることを自然に行うのであれば、自分自身が律法であるとされる」と記されていることが根拠となったいう。
しかし、著者はこれは「十戒」について述べたものではないし、もし十戒が自然法であるならば、神との関係を説いた十戒の初めの①主が唯一の神であること、②偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)、③神の名をみだりに唱えてはならないこと、から議論が外れてしまうと指摘する。(確かにその通りである!)
この議論をどう考えるかはともかく、文化や背景の異なる土地の人々に宣教をするというのは、常にこのような異文化衝突が関わってくる。イエズス会は、布教する土地の言語、芸術、社会などに適応する「適応主義」を採った。その試行錯誤の歴史と思索は、現代とつながっていてとても興味深い。
悔悛の秘蹟と現代神学教育の課題?
司祭になるための教育の課題も面白い。カトリックには7つの秘蹟があり、「悔悛の秘蹟」(告解、現在では「ゆるしの秘蹟」)と呼ばれるものがあり、ミサで信徒は司祭に対し自らの罪を告白し「赦(ゆる)し」を得ることが、信仰生活を送る上で重視される。司祭はそのために「何が罪であるか」を知り、適切な助言を行うことが必要となる。これは「倫理神学」と呼ばれたが、現代のプロテスタント神学校の「実践神学」の中の「臨床牧会学」や「牧会カウンセリング」に当たるともいえる。
しかし当時の文書では、神学校の教育で神学を体系的に研究することが必ずしも「聴罪司祭」としての働きを助けるものではないことが、既に問題とされていたという(!)。イエズス会ではそのため、具体的な項目ごとの手引書を作り、基礎的な学問と実践的な学問のバランスを図るような教育を行えるように苦慮したという。
現代の神学校での詰め込み教育を受けた若い牧師が、実際に教会で信徒とうまくコミュニケーションできず、「頭でっかち」だと批判される話はよく耳にするが、これは神学教育の永遠の課題なのかも・・・と思えて面白い(笑)
この他、異教徒との結婚、離婚などなど、400年前、宣教師が頭を悩ませた問題は、現在にそのまま当てはまるものが実に多く興味深い。そして学ぶべきところは多い。
禁教、迫害、殉教の中で
もう1つのポイントは、豊臣秀吉の晩年、江戸時代のキリシタン禁教下の迫害、殉教の歴史についての研究だ。
日本のキリシタン迫害と殉教は、ローマ帝国時代の原始教会の歴史になぞらえられて理解される。また、殉教の記述のされ方も古代ローマの殉教録に似ており、登場人物さえも類型化されているという指摘がある。さらに、当時の日本人キリシタンが、殉教を切腹に似た感覚で捉えていたとする指摘も興味深い。
そして死後、殉教者の遺体や身に着けていたものは、「聖遺物」として扱われ、薬になり、病気が治癒したと報告された事例も多いという。著者はそこに「殉教」が奇跡の実現と同時に、現世利益の獲得という要素もあったと指摘している。
迫害に対して、信徒は表向きは棄てる、抵抗する、抵抗しないという三通りの在り方があったが、この中で抵抗しない場合のみが「殉教」とされた。1613年に発生した、島原の乱で死んだ数万の人々は幕府軍に武力をもって抵抗したために「殉教」とはされないのだという。
豊臣政権から江戸時代にかけての殉教者が一人一人の名前と詳細までローマに報告され、現代まで知られているのに比べて、島原の乱の死者たちの詳細はほとんど知られていない。そしてこれからも未来永劫その死が顕彰(けんしょう)されることも再評価されることもない。そこに「殉教」というものの性質の一面が現れているようで、考えさせられてしまう。
禁教下の司祭たちと聖書解釈
棄教をめぐっての司祭たちの考え方も興味深い。当初、司祭たちはいかなる時でも信仰は否定してはならないということを原則とした。これは「人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」(マタイ10:33)や、イエスが捕らえられたとき、大祭司の庭でペトロが弟子であることを3度も否んだ記述などを論拠としていた。
しかし、弾圧が激しくなると、例外規定が設けられ、迫害下の状況で生命に危険が及ぶならば表立っては信仰を否定することを容認するようになった。その根拠はマタイによる福音書10章23節のイエスの「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」や、使徒言行録8章1節の「エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った」という記述などを論拠としたという。
そして、取り調べで信仰を否定してしまった場合にも、「コンチリサン(完全な痛悔[つうかい])」という秘蹟が行われ、罪は赦されたという。
そのような秘蹟が行われたからこそ、江戸時代長崎の各地では「潜伏キリシタン」として信仰が受け継がれ、明治になってからの“世界史的にも類がない”といわれる「250年ぶりの信徒再発見」へとつながったのだと思うと、受け継がれた信仰の重さにさまざまなものを感じさせられてしまう。
本書のあとがきで著者は、「昨今、キリシタン史の研究を志す若者が稀(まれ)になっている」として、「ぜひ志す若者が現れてほしい」と書いている。繰り返すがキリシタン史は決して400年前の「古臭い歴史ロマンの記録」ではない。そこには現代の教会の課題に通じる問題や、「キリスト教をめぐる文化受容」のヒントがたくさん埋まっている。本書を読み終えて、ぜひそんな若き研究者がその志を受け継いでほしいと願う。
浅見雅一著『概説キリシタン史』(2016年4月30日、慶應義塾大学出版会)