偶像崇拝はなぜいけないのか。
古代エジプトでは、さまざまな鳥、獣、自然物が拝まれました。タカ、牛、山犬、ワニ、コブラ、太陽…ある学者がエジプトの神々の一覧表を作ろうとしたところ、その数のあまりの多さに圧倒されてやめてしまったとのことです。
メソポタミヤ諸国でも月、牛、山羊が拝まれました。カナンとフェニキヤ地方では、バアルという、農作物と家畜をつかさどる自然神また豊穣の神アシュタロテが拝まれ、モアブではケモシュ神、アモンではミルコム神、ペリシテではダゴン神が拝まれました。
イスラエルでもテラピムを偶像化したり、金の子牛を公的礼拝の対象としたりして、神の怒りを招きました。偶像とは、金属や土石、木材で彫像、鋳像とされたもの、人間の手で造ったもの。ギリシャやローマの世界でも盛んに造られ、拝まれました。
日本では、仏像・観音像・阿修羅像・仁王像・毘沙門天像・七福神像・地蔵尊像などのほか、神社のご神体である自然物や蛇・狐・牛などの動物、菅公や天皇を拝んできました。戦前の軍国主義の時代には天皇が現人神とされ、拝むことが強制されました。その他、先祖の墓や各家の仏壇をも拝むよう、仏教諸宗が習慣化しました。
しかし、神は十戒の第二戒で、どんな偶像をも造るな、拝むな、と命じておられます。偶像はどんなものでも真の神の真の姿を誤って映すものであり、偉大な神を卑小化・矮小(わいしょう)化し、拝む者の神観を歪めることになります。イエス・キリストも「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」(ヨハネ4:24)と教えています。
偶像はまさに像であり、形あるもの。よって、目に見えない、霊である方を表すことはできません。加えて、偶像を拝むとき、人の道徳観が低下し、性的放縦とか物欲追求をもたらします。
偶像は真の神ではありません。それを拝むべきでないことは当然でありませんか。拝むべきは、天地万物を創造した神、絶対・唯一の全能なる神、義と愛の真実の神であります。
例えば、苦労して育てた子が親を疎んじ、よその人を「お父さん」「お母さん」と呼ぶなら、親は怒り、憤るでしょう。また、愛する妻が夫たる自分をさしおいて、他の男性と性関係に及ぶなら、それは不倫、姦淫になり、夫が怒り狂うのは当然でしょう!
神は強い愛の神です。その愛を裏切って神でないものを神とするなら、神が怒るのは当然なのです。ですから、偶像崇拝は神を信じる者(神の子)には禁じられているのです。
ときに、偶像崇拝者はこんな弁解をします。「私は偶像を拝んでいるのではない。偶像を通して偶像の背後にいるまことの神を拝んでいるのだ」と。しかし、それは詭弁(きべん)です。神は直接拝むべきです。
夫は自分の妻を愛するつもりで他の女性と性関係に及んだら、その言い訳は通用するでしょうか。それは姦淫以外の何ものでもありません。妻は、「他の女性を通さないで、直接私を愛して!」と言うでしょう。偶像崇拝とはそういうことなのです。本当の神を知った者は、決してすべきことではありません。
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