ボルヘスとの交流
実践的な活動家以外の側面もまた興味深い。ベルゴリオは、高校では文学や芸術の教師として、教室でガルシア・ロルカの詩集を読み、イングマール・ベルイマンの「第七の封印」を学校で上映したこともあった。さらにアルゼンチンの生んだ20世紀の重要な文学者ホルヘ・ルイス・ボルヘスと交流し、講師として教室に招き、生徒の作った物語を送って読んでもらったという。(生徒たちの作品は出版され、序文はボルヘスが書いたという!)
当時、11歳の妹に貧民街での自分の活動を伝え、毎晩お祈りをするようにと送った手紙も、とても文学的だ。
君にも僕が遣わされているこういう子どもたちのための仕事の手伝いをしてほしいのだ。君なら上手くできると思うよ。たとえば毎晩ロザリオの祈りをとなえるようにするというのはどうだろう。それが大変なのはよくわかる。
でも、君のお祈りは冬にゆっくりと降る霧雨のようなものなんだ。それが大地に降ると、土地は豊かになって、豊かな実りをもたらすんだ。僕が遣わされている仕事にはその実りをもたらすことが必要なんだ。だから、それを君にも手伝ってほしいんだ。
この美しい手紙からは、「祈り」に裏打ちされた静かな強い信仰を感じる。
バチカンとイエズス会の対立の調停者から教皇へ
本書を読んで興味深いのは、第二バチカン公会議以降、特にヨハネ・パウロ2世の時代には、解放の神学の影響が強かったイエズス会にローマが介入を繰り返し、両者の間に緊張関係があったことが示唆されていることだ。
このような中、ベルゴリオは現場のたたき上げでバランス感覚を持つ存在として、両者の間の穏健な調停者となり、重要な役割を果たすようになっていく。象徴的なのは、司教叙階の際にドイツ、バイエルンの聖ペトロ教会に掲げられている「紐ほどきのマリア(結び目を解くマリア)」を見て、「従順」を保ちながらも困難な使命を粘り強く解きほぐす姿こそ自分の信仰とつながるものであると強く感銘を受けて、祈りのカードに用い、配ったというエピソードだ。
「教会がそうあるべきでないと考えていること、贅沢(ぜいたく)、虚飾、偽善、官僚主義といった『自己顕示』的なもの全ての中心」と見なし、ローマへ行くことを嫌っていたが、次第に注目と支持を集め、2013年に前教皇ラッツィンガーの生前退位を受けて、教皇に選出されたのも、教会による世界的な性虐待問題やバチカン銀行のスキャンダルなど、カトリック教会が何重にもよじれた困難な状況の中、「紐ほどき」の存在として選出されたのかもしれない。
そして、その名に選んだアッシジのフランチェスコは、カトリック教会や修道院がいつしか富を蓄積し、硬直化した中で、素朴な生の中に生き、「清貧」を旨とするフランシスコ会を作り、カトリックの精神を「変革した」としばしば評価される人物であることが、何よりの意思表示なのだろう。
貧しい人と共に、アッシジのフランチェスコ
教皇フランシスコは、バチカンの伝統的で贅沢な衣装やしきたりを好まず、貧しい人々の中に分け入っていく姿を報じられるが、それは若いころから一貫している。アルゼンチンの大司教時代には、病院に行き、HIVや麻薬中毒者、同性愛者のもとを訪ね、キスして抱きしめ、足を洗ったという。
次の言葉が象徴的だ。
「教会は街に出てほしい。世俗的なこと、快適さのこと、聖職者重視の考え方、自分から閉じこもっていくことに関するすべてのことをやめにしたい。教区、学校、団体、組織、そうしたものすべてから出てこなければ。出てこないのであれば、NGOのひとつと変わらないことになる。しかし、教会はNGOであるはずがないんだ」
欧米など豊かな国で教会が衰退し、世俗主義と相対化に呑まれていく中で、ラテンアメリカやアジア、アフリカでは、迫害や弾圧に直面しながらも希望と喜びがあり、キリスト教は広がっているとして「周縁を志向する宣教」「実存的な周縁」という言葉をたびたび用いている。押し寄せる移住者であふれるスラム街、脆弱(ぜいじゃく)で壊れやすい世界こそが、苦難と渇望と貧困の中にありながら、喜びと希望もある場所であり、そこにこそキリスト自らが姿を現すことを選んだ場所である、とも語っている。
教会はそれ自体から出て、周縁へと向かうことを求められている。それは地理的にというだけでなく、実存的な意味での周縁、罪の不可解、苦難、不公平、宗教の軽視と欠如といった周縁、思想の周縁、あらゆる種類の惨めさという周縁に向かえということでもある。
霊的世俗化批判
そして物質主義、経済至上主義と共に「霊的世俗化」を繰り返し批判している。「霊的世俗化」とは、回勅「福音の喜び」の中では、論証や知解、個人的な体験に重きを置きすぎる主観的な信仰態度や、過去の伝統や特定の典礼様式に極端に固執する態度のことを指していると思われる。
教会の外にいる人たちを無視し、個人的な信仰を生きること、キリスト教の「教義的」「霊的」な言葉を装いながら、「世俗」そのものを生きていることへの厳しい批判ともいえる。
時とともに教会という組織に現れてきた悪は自己指示性、つまりある種の神学上の自己陶酔にその根をもつ。イエスはヨハネの黙示録の中で、「私は戸口におり、呼びかけている」と言う。そしてテクストには彼が戸口の外に立ち、中に入ろうとして戸を叩いているとはっきりと記されている。しかし、私はときどき考える。イエスは内側から戸を叩き、外に出してくれと言っているのだと。自己のことばかり話す自己指示的な教会はイエス・キリストを自身のために保とうとし、彼を外に出そうとしない。
本書を通して、これらのメッセージが、22歳でイエズス会に入会したとき以来、生き方として常に一貫していることに驚かされる。
そして日本のプロテスタント教会が(はっきり言うならば私の所属する日本基督教団の主流派であるが)、「宣教」「伝道」を訴えることばかりに血眼になり、社会と関わることを批判し、ますます内向きの姿勢を打ち出していることと、まさに対照的であると感じざるを得ない…。
バチカン内部の反発とこれからは?
本書の最後では、教皇フランシスコが世界で並外れた人気と影響力を持っているのと対照的に、バチカン内部では、古いルートや影響力を失った勢力による抵抗運動があり、既得権益者からの反発も大きいということが記されている。そして教皇自身も自分の在位が長くはないだろうと語っている。2014年には記者に「おそらく2、3年だろう」と語り、長くても5年となる2018年までの在位を前提にしているのではないかという。
しかし現代のカトリックやキリスト教において、フランシスコによってなされるべき課題は多い。
2015年に書かれた、700ページを超す本書は、「現時点」での教皇フランシスコの決定版評伝といえる。しかし「教皇フランシスコ」の業績と評価は、2016年以降、この本をさらに超えた分量で書かれる必要があるのだろう。キリスト教の歴史が変わる時代を、私たちは生きているのかもしれない。
『教皇フランシスコ キリストとともに燃えて』(2016年2月29日、明石書店)