「彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう」(詩篇92:14)
2006年4月、星野富弘さんと日野原重明先生が群馬県の富弘美術館で対談をしました。車椅子の富弘さんは60歳、日野原先生は94歳、2人とも実に生き生きとして年齢よりずーっと若々しく見えます。
富弘さんは23歳の時、中学校の体育の先生でしたが、指導中に回転に失敗し、首から落ちて頚椎(けいつい)を損傷し、全身麻痺になりました。人の世話にならなければ生きていけない人間が果たして生きていていいのか考えたそうです。
しかし、聖書を読み進んでいくうちに、神はこんな自分でも大切に思っていてくださることが分かり、生きる勇気が与えられます。そして人と比べて生きることをしなくなり、また自分は赦(ゆる)されたのだから、人のことも赦すべきだと自然に思えるようになり、生きることが楽しくなったといいます。
日野原先生は牧師の家庭に生まれ、小さい時から聖書に親しんできました。特に、Ⅰコリント13章の「信仰と希望と愛」がいつも自分を導いてきたといいます。
日野原先生は小学校を訪問して、10歳の子どもたちに「いのちの大切さ」について話しています。
子どもたちに「キミたちのいのちはどこにあるの?」と質問すると、ある子どもは心臓を指して「ここにある」と言います。すると先生は「これはモーターで心臓にいのちがあるわけではないよ。いのちとは、キミたちが持っている時間のことだよ、それをどう使っているかが問題なんだよ」と教えます。
そして「自分らしくいのちを使うとはどういうことか、作文にしてください」と言うと、10歳くらいの子どもたちは自分の日常の行動を反省し、自分のためだけにいのちを使っていたことに気付いて、何とかしなければいけないと感じ始めるそうです。
先生は「10歳くらいの子どもの感性はすごい。日本の将来は明るい、大丈夫だ」と思うそうです。ところが10歳を越えてから駄目になるそうです。それはモデルが悪い親や周りの大人たちが、正しい良いモデルを示してやっていないからだと先生は言います。
そういう意味で富弘さんは、身体的ハンディを持つ人々の素晴らしいモデルになっています。ハンディがあっても、生き生きと生きることができる。人を励ましたり、勇気づけたりすることができることを、富弘さんはモデルとなって示しています。
そして日野原先生ご自身も、年を取っても輝いて若々しく生きることができるのだと模範を示したいと言います。
富弘さんは言います。「いろいろ経験して分かってきたことは、どんな時にいのちを感じるかというと、人のために生きる時である。いくら自分で欲しいものを手に入れ、おいしいものを食べても、それはその時だけで終わってしまう。一番の喜びを感じるときは、やはり他の人々のために何かができたときである。自分のやっている事が、他の人の役に立ったとき、一番いのちが躍動している。それと同時に、自分の中にも感謝の気持ちが出てくる。いのちは自分だけのものではなく、誰かのために使えたとき、いのちは喜ぶのである」
富弘さんの「いのち」という詩です。
いのちが一番大切だと 思っていたころ
生きるのが 苦しかった
いのちより 大切なものがあると 知った日
生きているのが 嬉しかった
星野富弘さんと日野原重明先生の2人に共通しているものがあります。
1. 神にある平安と喜び
2. 神から与えられた仕事
3. 神に対する深い献身
この3つの要素は、私たちのいのちを、生き生きと生かし続けてくれるものなのです。
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