長い間その意味がよく分からなかった聖書の言葉があった。それは「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」(マタイの福音書18:20)というイエスの言葉である。
これを文字通りに解釈すると、1人だけの場合、イエスは共にいないということになる。同じイエスは別の箇所で「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(マタイの福音書6:6)とも言っている。
後者の場合、1人隠れているときに神がその祈りを聞いてくれるわけなので、前者と矛盾するように見える。もちろん後者は偽善者に対する警告であるが、最近になって前者はアガペーに関わる言葉であることに気付いた。
キリストの2戒の第1戒、すなわち「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(マタイの福音書22:37)は、神との関係に関する戒めであり、第2戒の「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」は自分以外の人との関係に関する戒めで、「黄金律」あるいはアガペーの愛を意味する。
これらの戒めは表裏一体で、どちらか一方だけを守ることができない。どちらも守るか、どちらも守らないかのどちらかである。そして第2戒は、1人では成り立たない。たとえ非の打ち所がなく立派に見える人であっても、自己達成型で他人を必要としない場合、あるいは他人に関心がないなら、第1の戒めすら守っていないことになる。
「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所」とは、アガペーの愛が存在する状況を意味する(神が三位一体であるところにアガペーの原点がある)。
そしてアガペーは、経済活動の原理そのものでもある。創造主なる神から日々無尽蔵に与えられる富の分配が経済活動であると書いたことがあるが、「分配」がなければ富は循環せず、全世界の人たちは貧困にあえぐことになる。
実は「人には迷惑をかけない」生き方そのものが、人に迷惑をかける生き方となる。なぜなら、人に迷惑をかけないという生き方の中では、自分の存在のみが意識され、「分配」の概念が欠如しているからである。
自給自足は他人に富を分配しない。人間は、他の人が必要とする分まで働いてこそ富の分配が起こり、その分配が自らの富になっていく。自給自足の社会は貧しい社会である。
漁師が自分の必要な分だけ漁をしたら、海辺に住んでいない人は一生魚を食べることができない。農夫が必要以上の量の野菜を作ってくれなければ、世界中の人は栄養失調になってしまう。
健全な経済社会の中では、人は必ず「自分に必要な分+他人が必要な分」まで労働している。これを別の言葉で言い換えるなら「自分を愛するように隣人を愛する」ことになる。
信仰生活においても、社会生活においてもあるいは経済生活においても、「隣人」が意識されていなければ、そこに神の祝福を期待することはできない。
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