「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」(マタイの福音書19:24)というキリストの言葉は、富を得たいと思っている人たちにとって大きなプレッシャーとなる。完全に富の否定に見えるからだ。逆に貧しい生活を強いられている人たちにとっては、慰めの言葉となるだけでなく、貧しさこそが神の御心であるという確信が湧いてくる。実際、貧しさの美徳を説教する牧師たちも大勢いる。
この言葉は、「永遠の命を得るにはどんな良いことをしたら良いのか」という質問に対し、「あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」というイエスの返答に失望し、帰ってしまった金持ちの青年に関して語られたものである。この青年は道徳的に模範的な人であった。モーセの十戒は全て守っていたし、キリストの2戒の1つである「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という黄金律も守っていた。
彼は申し分のない人格者で、今風に言えばノーベル平和賞候補であったかもしれない。ではなぜ、キリストは彼に「あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい」と言ったのだろうか? 富を持っていることが彼の唯一の欠点だったのだろうか? これは富所有の是非に関わる重要な疑問である。
聖書全体から見ると、富は神が与えてくださる祝福なので、富が青年の欠点であると解釈するのには多少の無理がある。もし富が罪なら、全てを失ったヨブが2倍の祝福を受けたという話は、われわれにとって何の教訓にもならない。
私はキリストの言葉を「富の否定」ではなく、「愛の度合い、あるいは質を問うもの」であったと理解するようになった。究極の愛は他人のために自分の命を捨てることであると聖書は言っている(ヨハネの福音書15:13)。それを文字通り実行したのが、キリスト自身であることは誰でも知っている。
それに反し、われわれの「隣人愛」は条件付きである。その条件とは「自分の立場が脅かされない」というものである。われわれは隣人愛を実行するために慈善活動を行う。アフリカの貧しい国に行って食糧援助、医療援助、教育、あるいは自然環境や生活環境の改善等の働きに携わったりする。でも、どんなに極貧の村に出掛けて行っても、慈善活動家は、自国に戻る飛行機代を持っているし、国に帰れば並みの生活水準に戻ることができる。
餓死者が何十万人も出るような所に行って援助する人でも、援助者が餓死したという話は聞いたことがない。明日、餓死するかもしれない人に自分の身分を与え、餓死を待つ立場に自らを置いたという話を聞いたことがない。たとえ、ノーベル平和賞受賞者でも、助ける立場と助けられる立場を交換した事例はない。
究極のアガペーは、困っている人と自分の立場を入れ替えることのできる愛である。金持ちの青年も、隣人を自分のように愛していた。でも、それは富の名義を交換するほどの愛ではなかった。あの青年に投げ掛けられたキリストの言葉は、条件付きの愛に生きるわれわれ一人一人に向けられたものであろう。
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