ドイツ福音主義教会(EKD)とスイスプロテスタント連盟(SEK)、および日本キリスト教協議会(NCC)が4月22日から29日まで開催した「NCC宗教改革500年記念:第7回日独教会協議会 いま、宗教改革を生きる―耳を傾け共に歩む―」。2日目の23日には、在日本韓国YMCA(東京都千代田区)9階大会議室で、ドイツのルター派とスイスの改革派から計5人が今回の協議会のテーマについてドイツ語で講演した。
講演会I ルター派教会の伝統から
「信仰と霊性のディアコニアとの関わり―こんにち、宗教改革から示唆を受ける―」
午前中にルター派教会の伝統から行われた講演会Iでは、最初にEKD宗教改革記念事業特命大使で元ドイツ福音主義教会議長のマルゴット・ケースマン氏が、「信仰と霊性のディアコニアとの関わり―こんにち、宗教改革から示唆を受ける―」と題して講演した。スライドに映し出されたその日本語訳には、「信仰と霊性のディアコニー的行為への関係―宗教改革の現代的意義」という題が記されていた。ディアコニアは、「仕える」「奉仕する」という意味のギリシャ語。
ケースマン氏はまず、宗教改革的信仰について、マルティン・ルターの信仰義認に言及。ルターの信仰は、常に教育された信仰であり、自己に責任のある信仰であって、イエス・キリストが信仰の中心であるとした。そして、後の世紀に、ルターの宗教改革的認識は、「キリストのみ」「恵みのみ」「聖書のみ、あるいは言葉のみ」「信仰のみ」に先鋭化されたと語った。
次に、ケースマン氏は、福音主義的な霊性について、「福音主義的霊性の中心的表現は賛美をすること」であり、従って、「宗教改革の霊性の根本は音楽であると言える」と述べた。「これは、しかし、同様に祈ることにも当てはまる」という。そして、「神の霊を通して、私たちの神経験は経験できるものとなります」とケースマン氏は語った。
ケースマン氏によると、霊性に対する新しい感動に対して批判的問いが立てられているが、これらは、今日の福音主義的霊性に対する問いであるという。「宗教改革的神学の四つの『のみ』が明確であるならば、福音主義的巡礼、舞踏、瞑想、沈黙が存在することは可能です」と、同氏は語った。
さらにケースマン氏は、ディアコニア的行為について、ルターは隣人愛の強調をキリスト教会の全歴史と共有していると語るとともに、統治当局に弱者のための配慮を義務づけることによって、ドイツにおける社会福祉国家のさらなる発展に影響を与えたと指摘。その19世紀の源を、市民社会における社会的責任の発展の中でのキリスト教会のイニシアチブから切り離されてみることはできないと語った。
また、ケースマン氏は、19世紀半ばに多くの富裕な人たちが、彼らに委託されている私有財産を貧困の撲滅のために、そして隣人愛の意味において用いることを彼らのキリスト教的な義務であると認識したと述べ、「これは、ディアコニーの多様な活動において起こります」と付け加えた。
さらにケースマン氏は、「全く新しい一つの挑戦は、どのようにしてこの社会福祉国家が移民への眼差しを持って機能するのか、という問いです」と語り、「その点で、キリスト教徒は、繰り返し合いについて注意を促さなければならないでしょう」と述べた。
「栄養、住居、教育と健康機関へのアクセスは、全ての人にとって人権です。そのために、ディアコニーは責任を負っています」と、ケースマン氏は述べた。
ケースマン氏は講演の最後にその要約として、「宗教改革的神学は、教義、慣習、そして社会的強制からの自由の励ましです。それは、不安から逃れ出ることを可能にします。しかし、それは、信仰、そして良心による決断と自分で責任を持って取り組むことを要求します。それは、礼拝の中で、聖書を読むことを通して、そして祈りを通して言葉を聞くことによって実践されます。この考えは、16世紀ヨーロッパの宗教改革運動の中にその根を持っています。しかし、それは、21世紀においてもまた、世界中で今日的意義を持っています」と述べた。
「なぜディアコニアなのか?―教会の徴(しるし)・ディアコニア―」
次に、同じくEKDのディアコニア部門(ディアコニア+世界へのパン)議長であるウルリッヒ・リリエ氏が「なぜディアコニアなのか?―教会の徴(しるし)・ディアコニア―」(スライドでは「教会の本質的特徴としてのディアコニア(なぜディアコニアは存在するのか?)」と題して講演した。
リリエ氏はスクリーンに映し出された日本語訳を通じて、まず、「ドイツにおけるディアコニアとはどのようなものか?」という点について、「ドイツにおいてディアコニアは、既に長きにわたって多くの法律や義務を担う施設・組織であり続けてきました」と紹介。「ディアコニア施設のない福音主義(プロテスタント)教会というのは、ドイツではそもそも考えられません」と語った。
「ディアコニアは福音主義(プロテスタント)教会の社会的役務です。その使命はイエス・キリストへの信従における生きた隣人愛であると考えられていて、それは独立的・不偏不党的に行われます。ディアコニアは、人を尊厳ある、かけがえのない存在として尊重し、自立した生活を営むことを支援するものです」と、リリエ氏は述べた。
「教会がディアコニアの働きをなしているときにこそ、それはイエス・キリストの教会でありうる、ということは、全ての教会に当てはまる事柄であることを私は確信しています」とリリエ氏は語り、「隣人と弱者への奉仕であるディアコニアは教会の本質的な特質として移り変わることのないものなのです。それは神の霊によるのであり、金銭と構造によっているのではないのです」と付け加えた。
リリエ氏はまた、「ディアコニアの論拠はどこにあるのか?聖書的根拠」という点について、「ディアコニアの実践は神の慈しみの広大な地平に属する事柄であると述べた。「神は慈しみ深い神であると同時に正しさ(正当性・権利・法)の神でもあります」とリリエ氏は述べた上で、「聖書的な尺度の倫理的な論拠は、人間性と同胞性に対する一般的な人間的義務においても、相応するものが見いだされます。それ故に、連係相手を持ったディアコニアは、自らの信仰告白(信条)あるいは宗教の境界線を越えた向こう側にもまた善き意志を想定することができるのです」と語った。
「同胞に対する、聖書的に根拠づけられた責任は、既に説明したように、困窮のうちに苦しむ者に対しての個人的な援助に限定されることはありません。既に聖書のテキストが、具体的な環境の中にある具体的な人々を見いだしているのです。これらの人々は、社会的地位を有し、特別な行動が期待されている社会的な役割を果たしており、そうした人々によって、任務と職務が果たされるのです」と、リリエ氏は続けた。
リリエ氏は、自らが読んだ東京からのあるルポルタージュを基に、日本では、「多くの人々が、自分たちの困窮を、ばつが悪いものとして隠してしまう」と指摘した。
リリエ氏はまた、マタイによる福音書11章5節「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」を引用し、「神の国は、私たちのただ中に存在しているのです。このことを知ることによって、私たちは託された宝、愛するキリストの兄弟姉妹を保護するのです」と語った。
「そして、この信仰は、どこに貧しき者はいるのかを見出すことができるようにさせるのです。キリスト者は、弱い者と貧しき者のうちに、その神を見いだすのです。誰一人、見えない者となることはないのです。神によって見つめられる者にとって、失われるべき面目などはないのです。それは、私たちの在り方を、互いに深く交わるものへと変えていくのです」とリリエ氏は述べた。
「私たちはただ、役割と(社会的)構造が変えられ、他者へと、世界へと続く、その水路を開くだけで良いのです。神の愛があるところに、神の奉仕(礼拝 Gottesdienst)が、ディアコニアが、教会があるのです。世界は何と美しく目に映ることでしょうか」と、リリエ氏は語った。
その上でリリエ氏は、「私は桜の花の美しさを思い起こします。そこでは、日本における花見の喜びは、それがたとえ一時の共同体であったとしても、社会的境界線を越えていくことを可能とします。神は愛であることを私たちが喜ぶことは、正しさ(正当性・権利・法)を創り出すのです。この愛が形をとるとき、どれだけの生きる喜びがあるのかに私たちは思いを向けるのです」と述べた。
「私たちは繰り返し、この愛に形をとらせることに挫折していますし、この挫折には決して終わりがなく、いつも新たに始まることも知っています」とリリエ氏は語った「しかし、そこにもまた特別な美しさがあるのです。おそらく、桜の花は、私たちに新しい始まりの力を思い起こさせるでしょう。いつも新たに始まり、共同体の美しさについての全ての人々に向けて働き掛ける、全世界のキリスト者の共同体に属していることを、私はうれしく思い、喜んでいるのです」
その上でリリエ氏は、「それ故にディアコニアは、不可避なものなのです。それは世界を美しい場所へとするものなのです」と述べ、ドイツの神学者であるフルベルト・シュテフェンスキの言葉をもう一度繰り返し、講演をこう結んだ。「何らかの事柄について、その美しさを見いだすことは、それを真理と見なすことよりも信仰においてはむしろ重要である」
「現場から:コミュニティー形成に向けた組織作り」
そして三番目に、EKDディアコニア現場担当者で資金調達担当をしている社会福祉士のヒッレ・リッヒャーズ氏(ドイツ・プロテスタント教会ラインランド洲教会デュレン教会)が「現場から:コミュニティー形成に向けた組織作り」(スライドでは「実践報告 地域を志向する活動としてのコミュニティーの組織化」と表記)と題して講演した。
リッヒャーズ氏は、「私たちは、将来的に、自発的かつ地域の福祉を志向する経済的援助というものをどのように動機づけて、強化できるのか」という問いが一つの将来の重要な課題となっていると述べた。
居住区域における地域活動について講演したリッヒャーズ氏は、デュレン教会が区域においてそこに住む人たちと共同して生活条件の改善に努め、また新たな希望ある展望のために備えたと述べた。「その際、彼らと共に、新しく、適切で、できる限り自主的な市民社会の体制を組織しました」とリッヒャーズ氏は説明し、「その際に重要だったのは、地域住民たちと『ともに』変革を実現するよりも、彼らの『ために』手を尽くすということが少なくて済んだということです」と強調した。
リッヒャーズ氏は「コミュニティーの組織化フォーラム」創設メンバーに所属しており、90年代にこのフォーラムを創設したという。「というのも、この(アメリカに由来する)態度や方法論から、よりわずかな提供(世話)で、むしろ、より活性化させる地域(コミュニティー)を志向する社会福祉活動のために非常に多くのことを学ぶことができるとの印象が私たちにはあったからです」と、リッヒャーズ氏は語った。
リッヒャーズ氏はそのことについての実践的な報告を行い、A.「なぜ、地域を志向する活動が―まさに、教会とディアコニーの活動にとって―今日、ドイツにおいて非常に重要なのでしょうか?」B.「何が地域志向型の方法において異なるのでしょうか?」C.「実践的事例 その具体的なステップはどのようなものでしょうか?」という三つの点について論じた。
その上でリッヒャーズ氏は、「これらの実践事例全てにおいて、教会員たちが、全く異なる組織や別の背景をもつ人たちとともに活動しています。自分たちの居住区域でのより良い生活のために行為すること、これこそが彼らを結びつけているのです」
リッヒャーズ氏は最後に、「私にとって、このことが、将来における教会とディアコニーの諸課題にとって希望と力に満ちたビジョンです」と語り、これをマルティン・ルーサー・キングが次の三つのように定式化したとして引用した。
「力は、正しく理解されるならば、それは何かに到達するための可能性である。力は、社会的、政治的、あるいは経済的な変革へと導くために必要とされる強さである。この意味において、力は、愛と正義の要求を実現するために期待されるだけでなく、むしろ必要とされるものである」
「歴史の最大の問題の一つは、愛と力の概念がふつう全く対立するものとして対置されていることだ。愛は力の放棄と、力は愛の否定と同一視されている」
「私たちが必要とするものは、愛なき力は配慮に欠け、侮辱的であること、そして、力なき愛は感傷的で人を感動させる力に乏しいということについての認識である。力は、最良の意味において正義の要求を実現する愛である。正義は最良の意味において、愛の前に立ちはだかる全てのものを変える愛である」(続きはこちら>>)