科学と理性は神がいないことを示しているではないか。
ある浮浪者が山の中で一軒家を見つけました。さ~て、ここを自分の“ねぐら”にでもしようかと考えて、本当に誰もいないか、とよく観察しました。しばらく見ていても人影は見えず、誰も住んでいないかのようです。でも、それだけでは無人の家とは断定できません。ひょっとしたら昼間だけ人がいなくて、夜は帰って来るかもしれないし、夜、電灯がついていなくても翌日には帰って来るかもしれない。
そう思うと、さらにじっくりと観察してみることにしました。人が住んでいるらしい痕跡が一つでもないか、と。1週間くらいたって見に行くと、裏の畑の一部がかすかに掘り返されていました。生ゴミを埋めたのか少し臭い。プロパンガスのボンベについているメーターの数値が少し動いていました。水道のメーターもそうでした。これだけのことであっても、とても無人の家とは判断できないですよね。
物事は、“有る”という証明は比較的に易しい。何か一つでも有ることを立証するもの、立証とまでは行かなくても、推測させる何かがあればいいからです。これに反して“ない”という証明は大変難しい。あらゆる方面で“ない”ということを確かめていかなければならないからです。極端にいえば、宇宙の果てまで探してみる必要があるわけです。そういうわけで、神がいないということは証明されていないのです。
試みに、神がいないという論拠を挙げてみてください。
論拠1「神を見ることができない、見たことがない」
これは論拠になりません。聖書の神は霊であって、見ることができない方だと初めから言っているからです。この世界には見ることができなくても存在しているものがたくさんあります。例えば、空気、電波、音波、紫外線、赤外線、放射線、磁力線、引力など。これらは、見えなくても身の回りにたくさんあって、その便利な性質を人は利用しているのです。見えないものはない、とは言えないのです。
論拠2「神の声を聞いたことがない」
人間の耳に聞こえる音波の周波数は、20ヘルツから2万ヘルツまで、音圧は130デシベルまでで、この範囲を超える音波は聞こえないのです。ところが“こうもり”はこれよりも高い周波数の超音波を発生させ、その反射音波により障害物を感知して暗い所を飛び回っています。仮に、神が極超短波で語っておられたら、人はそれを聞くことができないのは当然です。いずれにせよ、人間の耳に聞こえないからといって、神がいないということにはなりません。
論拠3「神がいるということを感じられない」
人間の感覚で感じられなくとも存在することはほかにもある。例えば、昼と夜とで上下の方向が逆になっていること、それを感じることはない。しかし、事実です。地球の自転により、赤道付近で毎秒約46メートル動いていること、その動きももちろん感じない。地球の公転により毎秒30万キロの速さで太陽の周囲を回っているが、これももちろん感じない。感じなくても論理的にそうなるなら、信じなければならない。神様も、感覚だけで、あるとかないとか言うことができない。別の方法で論理的に“いる”と考える方がよいと分かれば、信じるべきです。
神を信じる人は、無知蒙昧(もうまい)な無教養な人ばかりではありません。科学者や医学者、文学者、その他知的リーダーや各界の指導者にも大勢いました。現代もそうです。
ガリレオ、パスカル、ファラデー、ファーブル、メンデル、ダンテ、セルバンテス、ミルトン、デフォー、トルストイ、ドストエフスキー、クロムウェル、ワシントン、リンカーン、グラッドストーン、シュヴァイツァー、ヘレン・ケラー、内村鑑三、新渡戸稲造、野口英世、賀川豊彦、吉野作造、日本の総理大臣・原敬、片山哲、大平正芳、戦後の東大学長・南原繁、矢内原忠雄、最高裁長官・田中耕太郎、最近の日銀総裁・速水優、医師・日野原重明、樋口広太郎(元アサヒビール社長)、小林陽太郎(元富士ゼロックス社長)、池田守男(元資生堂社長)・・・ノーベル賞を受賞した人の中にも大勢います。
化学者、医学者などは、生命や人体の神秘に接するせいか神を信じる人の割合が多いといわれています。もちろん、信じない人は知者であろうとなかろうとたくさんいます。
要するに、科学的に、あるいは理性的に考えたら神はいない、というわけではありません。
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