歴史の理解と和解、結城了悟(ディエゴ・パチェコ)神父
この相互対立の歴史の和解に大きな役割を果たすことになるのが、本書のもう1人の主人公、スペイン出身で日本人国籍を取り、結城了悟という日本人となったイエズス会のディエゴ・パチェコ神父だ。
結城神父は39歳で長崎に移ってから、86歳で亡くなるまで、戦国時代以来の日本に来た宣教師たちの手紙など膨大なキリシタン資料を集め、解読、翻訳し、世に紹介することに生涯をささげた。その中で、部落解放運動に関わることになっていった。それは、宗教と差別をめぐるある事件がきっかけだったという。
差別と宗教
1979年に米国で開催された第3回世界宗教者平和会議で、全日本仏教会理事長で曹洞宗宗務総長の町田宗夫氏が「日本には部落差別はない。それは100年ほど昔の話であり、今はありません」「部落解放を理由に何かさわごうとしている者がいるだけで、政府も自治体も誰も差別はしていない」と発言し、部落問題に関する記録を報告書から削除させるという事件が起き、大きな批判を受けることになった。
部落解放同盟は強く抗議し、検証が行われる中で、仏教の過去帳や墓石に付けられた「差別戒名」「差別儀礼」に関する古文書が存在することが分かり、曹洞宗は全国約1万4700の寺を対象に「同和問題に関する寺院調査」を実施、143の寺に「差別戒名」が存在することが確認されたという。
これがきっかけで、全国各地で宗教や教派を超えた取り組みが始まり、「同和問題にとりくむ宗教教団連帯会議」が結成された。長崎でも「部落解放にとりくむ長崎宗教教団連帯会議」が結成され、浄土真宗本願寺派、真言宗各派、真宗大谷派、真宗各派、曹洞宗、天台宗、天理教に加え、カトリック教会、日本基督教団、日本聖公会、日本ナザレン教団など11の教団が参加し活動を始めた。
浦上天主堂の隣のカトリックセンターでも、毎月宗教者による研究会が始まり、長崎の解放運動の中心として活動していた中尾と磯本と結城神父が出会い、部落史研究と、キリシタン史研究の中で、対立してきた両者をつなぐ歴史の事実が掘り起こされていった。
弾圧を拒んだ人々
結城神父が紹介した、バチカンのローマ法王庁に残る資料によると、江戸時代の禁教下、部落民の祖先の町民たちの中で、キリシタンの弾圧を拒否してキリシタンをかくまった人々がおり、彼らの多くもまたキリシタンで、殉教を遂げた人々もいたということも明らかになっていった。
〔1619年11月17日の〕殉教の時に見られたもう一つの手柄は、皮屋たちによるものでした。彼らは動物の皮を剥ぎ取る人たちで、牢屋まで呼ばれて受刑者たちを縛ったり、刑場まで綱を引いて行きます。二年前に十二人の聖なる殉教者が火炙りになった時と同じように、それをするのは罪だと知っていたので行くのを拒みました。
以前キリシタンであった奉行〔代官のこと〕平蔵は、彼らの三人を呼びつけ、自分たちの勤めであるにも関わらずに行かなかったので厳しく叱責しましたが、彼らは、それをすることは絶対にできないし、そのように神父から教えられていると言いました。
平蔵は「気をつけよ。申しつけに叛(そむ)くようであれば殺されるであろう。注意しておくので、後日私に文句を言わないように」と申しました。
彼らは、文句を言わないし、そのようなことをするよりも死ぬ覚悟ができていると答えました。
(バチカンに所蔵されていたドミニコ会宣教師からの手紙より)
このような歴史を振り返り、ある研究者はこう語っている。
おそらく(幕府側の)弾圧に屈し、(皮屋町)住民は仏教徒に転じたと思われます。同じように、浦上の潜伏キリシタンは、仏教徒に転じながらも、しかしその後ひそかに信仰を伝えたことに両者の違いがあったわけです。・・・同じくキリシタンとして宗教弾圧を闘った皮屋町住民が、こんどは弾圧する側に位置づけられ、刑吏として迫害の尖兵を担いました。そのことが、現在に至るまで両者の間に禍根を残したのであれば、それは直ちに解決されるべき問題です。・・・一つひとつの事実を積み上げることによって、「禍」が「幸いな出会い」へと導かれるよう祈念したいと思います。
顔を合わせ、研究と学びの場が続く中で、少しずつ「和解」の場が築かれていった。
2000年には、島原の乱の舞台となった原城跡で犠牲者を慰霊する式典が行われ、現地の仏教僧侶と島原教会の神父が双方の過去の歴史の過ちを認めるメッセージを読み上げ、和解の握手をし、アッシジの聖フランチェスコの「平和を求める祈り」を共に唱え、土地の人々、仏教信徒、カトリック信徒に大きな感動をもたらしたという。
キリシタン史研究に生涯をささげ、長崎二十六聖人の列福に最大の貢献をなした結城神父は08年、列福式の一週間前に亡くなったという。彼はこんな言葉を語っている。
秀吉も徳川も直接手を下したのではなく、キリシタンと部落民の双方を利用して圧迫した。これを忘れてはいけません。浦上村の信者と被差別部落とのケンカも、大きく見るとケンカではない。ケンカさせられていたのです。現代はもう一歩すすめて、一緒にできる。圧迫された人間が一緒になるのです。
(中略)
差別をなくすために、子どものときから『みんな兄弟姉妹』として教え、キリスト信者として、みんなに仕える者になりますように。これはキリシタン時代から私が受けた教えです。
和解のための学びは現在も続けられ、部落史とキリシタン史をつなぐ研究と学びの場は、長崎を超えて全国に広がっている。
この長大な物語を終えて、著者はこう記している。
長崎の教会群を世界遺産にしようとの動きがある。私は弾圧の歴史でさえ美しく物語化して呑み込もうとする奔流のような流れにたいして、どうか弾圧の手先となった被差別民のなかにもそれを町ぐるみで拒否し、刑死していった人びとがいたということを忘れずに語り継いでほしいと願う。
傍観者側も、傍観してきたというその一点において、加害の側に立っている。長崎全体で歴史的和解に向けた努力を惜しまずにしていくことが、世界遺産というものにさらなる輝きをもたらすだろうと信じて疑わない。
(「あとがき」より)
かつて長崎に住み、離れた今も長崎を愛し、いつも気になっている1人のクリスチャンとして、本当に深く同感する。そして、この対立の歴史と和解、未来への希望を丹念に取材し、記してくれたことに、今一度深く感謝したい。
『生き抜け、その日のために 長崎の被差別部落とキリシタン』(2016年4月、解放出版社)
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