「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。・・・ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります」(ヤコブ5:13~16)
聖書というと小難しい理屈が書いてあるイメージがありますが、ヤコブが書いたこの箇所には、教会がどんな場所であるのかが分かりやすく明快に書かれています。新約聖書はそれぞれ明らかに著者が違います。でも、違う著者たちがそれぞれの教会を描写している中に「癒やし」という言葉が当たり前のように出てくることに気付いてほしいと思います。今日、癒やしを祈るに当たって三つのことを押さえていきましょう。
1. 癒やしの恵みは常に教会と共にある
マルコの福音書16:15~18、第1コリント12:7~9、第3ヨハネ2にしても、それぞれ違う教会の違う人たちが共通して「癒やし」ということを書いています。異なった角度から違う人々が、教会生活の中には癒やしがあると語っているのです。
私たちはキリストの体である教会に集っています。それならば、私たちはこの聖書の箇所が語るように、私たちの教会にも当たり前のように「癒やし」があることを信じようではありませんか。
2. 信仰は理屈ではなく経験すべきこと
「信仰を持つ」と言うと、日本人の感覚では難行、苦行、厳しい修行を積み重ねなければならないと思ってしまいます。あるいは、猛勉強をして悟りを開かなければならないと思っている人がいます。
ほかの宗教はそうかもしれませんが、聖書が語る信仰はそんな理屈や私たちの修行とは関係ありません。聖書は、神の働き、神の恵みを経験し、受け入れればいいと語っています。
今日開いた聖書の箇所にも、「祈りなさい、賛美しなさい、牧師たちと一緒に祈ってもらいなさい」とあっさりと書かれています。私たちは恵みを理屈で理解するのではなく、素直に受け止める者となりましょう。
3. あなたも当事者になりましょう
新約聖書の各書物は、理論の解説や難しい論文として限られた人に読まれるために書かれたものではありません。もともとは、一人でも多くの人に読んでもらうために書かれたものです。
ということは、読み手である一人一人が皆、当事者であるということです。2千年の時代を超えて今日、この聖書を読んだあなたも当事者です。ヤコブがこの手紙を通して語り掛けているのは、あなたです。あなた自身がこの手紙の受け取り手として、この語り掛けに対する当事者として、この癒やしの祈りを一緒に祈ってほしいと思います。
主は今も生きて働いてくださっています。この恵みを自分が当の本人として受け止めたいのです。この場にもおられるキリストの恵みを受け止めましょう。
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