1. 聖書の権威で、自己主張する母子
ある土曜日の午後3時ごろのことです。私は、友達と吉祥寺のデニーズで、お茶をしました。私のテーブルには、7歳のハンナと5歳のメグミ、そして2人の母親のレイチェルがいました。
女の子たちは、既にお昼ごはんを2時間前に食べていました。お店に入ると、ウェイトレスがメニューを持ってきて、私たちは、それぞれ飲み物などを選びました。
飲み物を選ぶときの、お姉ちゃんのハンナとお母さんのレイチェルの会話に、私は苦笑してしまいました。
娘:「ママ。私、ホットケーキ食べたい」
母:「ハンナ。もう、お昼ご飯を食べたでしょ。今は、我慢しなさい」
娘:「えー、ママ。ホットケーキ、食べたい」
母:「ハンナ。ダメよ」
ファミレスでは、たまに見かける母と子の会話です。あまりに娘のハンナがごねるので、母親のレイチェルはイライラしていました。
レイチェル一家は、敬虔なクリスチャンです。聖書の言葉を、生活の中で実践したいと願っています。
母:「ハンナ。聖書には『親に従いなさい』とあるでしょ。私の言うことを聞きなさい」
娘「でも、ママ。聖書には『求めるものに与えなさい』とあるわ。私はホットケーキを求めているのよ」
お母さんのレイチェルは、聖書を引用して、ハンナをしつけようとしましたが、7歳のハンナも負けていません(笑)。
結局、お母さんのレイチェルが降参して、ハンナはホットケーキを食べていました。
2. 神の智慧(ちえ)なくしては、子育てできず
なんとも微笑ましい母子の会話ですが、子育てをする親としては、子どもがどうすれば自分の言うことを聞いてくれるのか、悩ましいところです。
先の会話では、母親のレイチェルも娘のハンナも、互いに聖書の言葉を悪用して相手におしつけていたことに問題がありました。
では、母親レイチェルは、どのようにハンナをしつければよかったのでしょうか。
例えば、「ハンナ。私は、ハンナのことが大切なの。聖書に『人を愛しなさい』ってあるでしょ。私は、娘のあなたを愛しているの。だから、ハンナが太り過ぎないように食べ物を我慢してほしいの」と心を込めて毅然(きぜん)と言う。
そうすれば、聖書の言葉を押しつけることなく、娘をしつけることができたのではないでしょうか。
もちろん、子どもも生の感情を持つ一人の人間であり、一人一人、性格も違います。家庭ごとに、子育ての状況も違うので、一概に「これが正解!」という答えは見つかりません。
私たちにできることは、神に子育ての智慧を祈り求め、失敗から学びながら、試行錯誤を繰り返す。これに尽きます。
3. 聖書は、相手ではなく自分を変えるためのもの
時々、自分の主張を正当化するために、聖書の言葉が引用されることがあります。
「お前。聖書に『全てのことに感謝しなさい』と書いてあるだろ。なんで感謝しないの?」と、聖書の言葉を利用して、相手を変えようとします。これは、聖書の言葉の悪用です(離婚の原因のほとんどは、「妻は夫に従いなさい」と「夫は妻を自分の体のように愛しなさい」という聖書の言葉を、それぞれが相手に押し付けることにあります)。
昔から誰もが、自分の目に正しいと見えることを行ってきました。歴史を見るなら、宗教戦争も家庭のゴタゴタも、神ならぬ自分を正当化した結果の産物です。「自分が神に従う」ためにではなく、「相手を自分に従わせる」ために、「神の言葉」を悪用するのです。
でも、"「お前はダメだ」 なんてあなたが勝手に決めないで、余計なお世話じゃないの"という話です。そもそも、いつでも正しい人なんて、いるのでしょうか。
あくまでも、「自分も間違っているかも」「知らずに人を傷つけていたかも」と謙虚に自己を省みて、心を静めるために聖書はあります。聖書の言葉は、相手ではなく自分を変えるためのものなのです。自分が変われば相手も変わるかもしれません。
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関智征(せきともゆき)
ブランドニューライフ牧師。東京大学法学部卒業、聖学院大学博士後期課程修了、博士(学術)。専門は、キリスト教学、死生学。論文に『パウロの「信仰義認論」再考ー「パウロ研究の新しい視点」との対話をとおしてー』など多数。