キリストへの服従と讃美
マルコの福音書11章1節~11節
[1]序
今回の箇所であるエルサレム入城の場面は、マルコの福音書ばかりでなく、マタイ、ルカ、ヨハネの各福音書にも記され、四福音書すべてがこの場面を取り上げている事実は、この場面がいかに大切なものと見られたかを示します。
しかしこの場面を四福音書が等しく描いているとは言え、以下に見るように、それぞれが特徴ある仕方で描いている点も目を引きます。
マタイは、ろばの子に乗ってエルサレムに入城する主イエス(マタイ21章1~11節)を、旧約聖書との深いかかわりで見、ゼカリヤを通して語られた神のことば(ゼカリヤ9章9節、14章4節)の成就として描きます。
ルカがこの場面を描く中で(ルカ19章29節~40節)特に注意したいのは、37節から40節です。そこでは、山の斜面からエルサレムが見えるとき、弟子たちの心に喜びと賛美が溢れてくる様を生き生きと描いています。
「イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め」(ルカ19章37節)とあります。
今まで行動を共にして来た主イエスがいかなる方であるか悟ったときの賛美で、後のキリスト者・教会の賛美を先取りしているかのように描かれています。
ヨハネは、この場面を主イエスの十字架と復活の経験の後に振り返って見るとき、その意味が深く理解された事実を指摘しながら記しています(ヨハネ12章16、17節)。長い時間忍耐をもって主イエスの弟子たちを導き、彼らの信仰の目を開かせる御業を見ます。
こうした他の福音書と比較して、マルコはエルサレム入城を簡潔に、率直に描いています。実況放送のように。
[2]主イエスのことばへの服従(1~8節)
(1)主イエスのことば、命令と約束(1~3節)
エルサレム入城そのものの前に、1節~3節では、主イエスがふたりの弟子に命令・指示を重ねて与えておられます。それはふたりの弟子が直面する事態への備えを与え、約束を含むものとマルコは記しています。
「向こうの村に行きなさい」
「それをほどいて、引いて来なさい」
◆「もし『なぜそんなことをするのか』と言う人があったら」
↓
「『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます』と言いなさい」
(2)ふたりの弟子の応答(4~6節)
「そこで、出かけて見ると」(4節)と、ふたりの弟子の応答をマルコはありありと描いています。
続いて、「表通りにある家の戸口に、ろばの子が一匹つないであった」と、その現場にいた人から直接聞くようです。
(3)まず弟子たちが(7節)
主イエスのもとに引いて来られたろば。そのとき弟子たちは、主イエスに指示されたからではなく、自分たちから進んで自発的に、その場で必要と判断したことを実行したのです。
「自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた」(7節)
[3-1]キリストへの讃美(8~10節)
(1)弟子たちから他の人々へ(8節)
7節に見る弟子たちの行為は、他の人々へ影響を与え、他の人々の行動へと広がります。
「すると、多くの人が、自分たちの上着を道に敷」いたのです。「またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原から切って来て、道に敷いた」のです。
(2)キリストへの讃美(9~11節)
弟子たちばかりでなく、「前を行く者も、あとに従う者も、叫ん」(9節)だことばが、9節後半と10節に記されています。これは、詩篇118篇26、27節からの引用です。エルサレムで年に三度おこなわれた大祭に参加する巡礼者たちが歌った詩篇120篇から134篇の一つです。神殿で主なる神へささげられる喜びの讃美が、今主イエスに向けてささげられています。
(3)ルカ19章36~40節を参照
エルサレム入城について、キリストへの讃美との面を見る際、ルカ19章37~40節が大切な導きを与えてくれます。その箇所の幾つかの点を注意したいのです。
[3-2]「喜んで大声に神を賛美」(ルカ19章37~40節)
(1)誰が、どのような中で(参照・ルカ2章13、20節)
①「弟子たちの群れはみな」
②オリ-ブ山をくだりエルサレムを目前に、「自分たちの見たすべての力あるわざのことで」(37節)
③「喜んで大声に神を賛美し始め」(37節)
(2)賛美の内容(38節)
①「祝福あれ。主の御名によって来られる王に」
②「天には平和。栄光は、いと高き所に」
(3)神への賛美をやめさせようとする力に対して主イエスの答え
「この人たちが黙れば」→「石が叫びます」(40節)
[4]結び
幾組も到着したに違いないエルサレム巡礼の小さな群れ。主イエスと弟子たちの一行も、外面的には他の群れと少しも変わりはない。しかしそこに、主イエスのことばへの信頼と服従の思いを持ち、賛美に満たされて行進する弟子たちの姿を見ます。その群れの中に、あのバルテマイの姿を見ないでしょうか。
「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです」(ガラテヤ3章26~28節)
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宮村武夫(みやむら・たけお)
1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学(新約聖書学)、上智大学神学部修了(組織神学)。現在、日本センド派遣会総主事。
主な著訳書に、編著『存在の喜び―もみの木の十年』真文舎、『申命記 新聖書講解シリーズ旧約4』、『コリント人への手紙 第一 新聖書注解 新約2』、『テサロニケ人への手紙 第一、二 新聖書注解 新約3』、『ガラテヤ人への手紙 新実用聖書注解』以上いのちのことば社、F・F・ブルース『ヘブル人への手紙』聖書図書刊行会、他。